エネルギー供給に関する 「好都合な真実」 2017.1.11 |
予告してから随分と年月が経ってしまったが、エネルギー供給に関する「好都合な真実」について記すことにしよう。
最初に断っておいた方が良いかもしれない。この話は別の角度から見ると、逆説的にに「現実は想像以上に厳しい」
という意味にもなる。
中国による尖閣諸島領有権主張の背景には、あの海域に眠る海底油田が関係すると見られることは前にも述べた。
南シナ海も同様だ。ついでに少し補足しておこう。
実際に尖閣海域に海底油田が見つかった1960年代末までは、尖閣諸島は領有権を争うような島ではなかった。
それが「イラクの埋蔵量をも上回る」と推定(当時の調査で)されて、すぐさま反応したのは台湾だった。
だから中国、つまり中華人民共和国にとっては悩ましい。まず尖閣諸島は台湾(=中華民国)の領土、そして台湾は
中国の一部だから尖閣も中国の領土だ、と論理展開をしなければならない。現実には台湾は中国の統治下にない。
いわば非現実、理想である“一つの中国”が前提条件になってしまっている訳だ。
自然エネルギーへの見方
さて前置きはこのくらいにして、とにもかくにもエネルギー資源がこれからの日本にとって、延いては世界にとって、
争いの火種になりそうな状況であることは間違いない。
先走って結論を言えば、エネルギー供給は対処可能な問題である。エネルギーは人類にとって死活的資源の一つだが、
それなら食料や水の供給の方が厳しいかも知れない。更に人口増加それ自体に対処しようとすることは、
出産の自由といった社会正義の問題にまで踏み込むことになってしまい、大変難しい問題である。
そこで一応ここでは良くやるように、世界の人口は国連の中位推計に従って増加することにして話を進めておいて、
人口の問題については、別途稿を改めて考えるとしよう。
因みに中位推計は、今後数十年で世界の人口は増加から安定に転換し、その時の人口は120億人程度に収まって、
さらに長期的スパンで見るとその先は緩やかな減少に転じることになっている。
太陽光発電とか風力発電とか、それが理想だけど現実にはいろいろ問題があって難しい、とよく言われるが、逆に
「これからの時代には太陽光でエネルギーを賄うのが良い」
などと言われたらどう思うだろうか? 「そんなこと旨く行くはずがない」と感じるのではないだろうか? むしろ、
「理想だけど現実はそんなに甘くない...」
と言われた方が心地よい。そう、人間は「好都合な真実」に不安を感じるものだから、不都合な方が安心できるのだ。
そのため「現実は甘くない」理由を一生懸命に探して、それらしき理由を見つけたら「やっぱりそうなんだ」と安心する。
更にその理由を批判的に検討することをしないで、そこで考えることをやめてしまう。
試算の基準
以前述べた理由により、“再生可能エネルギー”の言葉は避けて、“持続性エネルギー”の表現を使うことにしよう。
太陽光や風力、水力、地熱、バイオマスなどがその具体的な中身だ。
こうした持続性のエネルギー資源の量を考える場合は、枯渇性エネルギー資源とは違った基準で比較する。
例えば太陽光のエネルギーは毎秒どれだけ供給されて、人類は毎秒どれだけ消費するのか、という具合に比較する。
一方石油などの枯渇性エネルギー資源の量は、毎秒の供給量とかではなく、全体としてどれだけの埋蔵量があって、
それをどういうペースで消費したらどの程度の期間保つか、という具合に比べる。
この違いを武田氏は、「月給型資源」と「遺産型資源」と表現して説明している。分かりやすい表現かもしれない。
遺産型資源の場合に考慮すべき「使うペース」は、現実には資源価格と密接に関係していることを以前書いた。
そこで今度は持続性エネルギーの方を議論しよう。
想定するのは人口が安定した遠い未来だが、却って話が単純で確かな計算ができる。
一定のペースで持続的に供給されるエネルギーと、一定人口での消費ペースを比較する。変動を考えなくて良い。
そのおかげで試算も確かなものになるのだ。
世界人口120億の時代に一人当たりのエネルギー消費をどのように見積もるのか、いろいろな考え方があり得るが、
世界中の人に日本人と同じだけのエネルギーを供給することを目標にしたとする。
現在の世界平均の一人当たりエネルギー消費量は、言うまでもなくその数分の一しかない。
「一人で今の数倍も消費する。そんなに大量のエネルギーが必要なのか?」 確かに実際には必要としない民族も
いるだろう。気候の温暖な低緯度地域では、極端に言えば敢えて原始的な生活を選択することも可能である。
それが民族の選択だとするなら、日本人並みのエネルギー供給など有難迷惑にしかならない。
けれども「本当は日本人並みの生活がしたいけれども現状ではそれができない」人たちに対して、
日本人の私が「現状の生活を続けてくれ」と言うのは道義的に言ってどうなのか? それ故、世界中の人に日本人と
同じだけのエネルギーを供給する場合の試算を選んだ。
自然エネルギーの潜在力
では具体的にどうなっているのか。敢えて枯渇性エネルギーの原子力を推進する立場の本の数字を使ってみて、
大体次のような結果になった。
太陽光
賦存量は必要量の1000倍程度。幾つかある太陽エネルギー利用法の内で、単純に太陽電池だけを使ったとすると、
エネルギー変換効率は実売型の太陽電池で10-20%しかないことや、
天候に左右されること、夜間発電しないこと、などを考慮していくと、1000倍あったのは10倍くらいに目減りしてしまう。
だがこれが最有力。なんと単独で必要量を賄う賦存量があるのは太陽光だけなのである。
因みに太陽電池は他の太陽エネルギー利用方法に比べて、エネルギー変換効率が低いのが太陽電池の弱点だ。
長所は、変換後に得られる電気エネルギーの用途が広いこと、それに加えて際立つのは、
メンテナンスをほとんど必要としない唯一の発電方法だという点である。
発電単価が高い点も弱点とされるが、算出方法に政治的影響が入りすぎるし、今の場合は数十年以上先のことを
考えているので、現在の発電単価にはあまり意味がないように思われる。
風力
賦存量は必要量の10倍ほど。太陽光の1/100程度ということ。少なく感じるかも知れないが、理屈を考えれば順当だ。
風力も元を辿れば太陽光のエネルギーの一部分が変化したものだから、それより桁違いに少ないのは当然である。
風車を設置できる場所は限られ、そもそも地表付近の風しか使えない。
この賦存量では、「風力だけで必要量を賄うことはできない」ことになる。
原発事故後に環境省から出た試算では、我が国の電力需要の内で事故前に原発が担っていた分を肩代わりする
(のに少し届かない)程度だった。電力に限ったエネルギー供給の中の数分の一ということであるが、言い換えれば
実際の発電可能量は賦存量の1/100程度になってしまう、この辺の塩梅は太陽光と同じだ。
環境を大切に考える人にとって気になる欠点が風力にはある。飛んでいる鳥やコウモリが風車の羽根にぶつかって
撃ち落されてしまうことがある。他にも騒音。また可動部を持つ通常の発電方法なので継続的メンテナンスを必要とし、
集中設置する必要がある。優位点としては発電単価が現在でも安く、既に価格競争力を持つ。
水力
水力に至っては賦存量からして必要量を下回る。小水力のような未利用分が残っているから、それを開発すべきだ、
というのは正しいが、小水力で得られるエネルギーは小さいことを意味する。
しかし水力には他にない長所がある。それは以前も述べた発電量調節能力である。
需要の変動を追いかけて全体の発電量を増減させないと、その影響は電圧が上下するという形で跳ね返って、
電化製品は正しく動かなかったり故障したりする。それを防いで電圧を安定させる役割を水力と火力が担っている。
特に短時間の細かい変動にも対応できるのは水力だけである。
≪揚水発電(蓄電)≫
日本は山に富む地形で降水量も多く、水力発電に有利な条件に恵まれるが、それでも需要追随能力が足りない。
そこで導入しているのが揚水発電である。揚水発電は発電と称しているが、実際には蓄電設備である。
電力の余った時に水を山の上のダムに汲み上げておき、不足するときにその水を落とすエネルギーで発電する。
当然エネルギー損失があるから、汲み上げた時の消費電力よりも少ない電力しか得られないが、
7割ほどを再び電気エネルギーに戻すことができる。トータルでは発電になっておらず、むしろ電力を消費している。
結局「余った時の電力を貯めて置いて必要な時に取り出して使う」ことになるから、これは蓄電設備だ。
なぜ蓄電設備を作る必要があるのか? それは需要と供給のタイミングが合わないからで、
殊に「発電量を調節できない原子力」の比率が高まると、水力の発電量調節能力が欲しい状況に拍車がかかる。
だから揚水発電は原子力発電の補完設備と見なされることがある。
こうした水力の特質を考えて私は、揚水発電に対して将来のエネルギー供給を支える特別な役割を期待している。
将来エネルギー供給の大半が持続性エネルギーになったとき、つまり今想定している状況では、
太陽光や風力なども発電量が調節できないから、揚水発電のような蓄電設備を利用するのが良いのではないか?
「原子力の補完設備」であることを止めて、「自然エネルギーの補完設備」になる。他人からは聞かない意見だが、
原子力が役割を終えても、揚水発電の必要性は残ると私は考えている。
バイオマス
最後にバイオマスの特殊事情に触れておきたい。まず賦存量は必要量と同程度。これだけでは不足、ということだ。
しかしそれ以上に問題なのは食料生産との競合である。更に自然生態系の維持とも競合する。
一昔前にバイオエタノールが華々しくマスコミを賑わせた。トウモロコシから作るエタノールを燃料として利用する。
その方法が、主にアメリカで爆発的に広まった。その結果トウモロコシの値段が跳ね上がったのだが、
元々トウモロコシは他の穀物に比べて価格が安かった。その安さに甘んじて量産することで利益を確保してきた
農家にとっては、恵みとなるバイオエタノールフィーバーだった。
後述のように私は世界の食料供給について楽観できないと見ていたので、喜ぶアメリカ農家の姿をマスコミが
“先進的取り組み”として好意的に報じることに違和感を抱いた。当時日本ではバイオエタノール開発の動きは鈍く、
「遅れている」と言うのだが、その方が私に言わせれば「良心的」である。
やっと出てきた国内の動きを報じる記事では、食べることのできない海藻のホンダワラをバイオ原料にすると言う。
しかも海産食料資源と競合しない外海で生産したいと言う。「そう、そう、そうでなきゃ! 」
しかし当時は私のような意見は全く聞こえてこなかった。そして数年後に問題になったのは途上国の食料高騰だった。
トウモロコシの価格が上がったため、安いトウモロコシに依存してきた途上国で、食料調達に困難が発生していると。
今更「問題が見つかった」って、最初から分かっていたじゃない!
植物光合成のエネルギー変換効率は、1%程度かそれ以下。ここでも“自然崇拝教”が邪魔して、真実を曲げてしまう。
科学技術の産物である太陽電池よりもバイオマスの方が優秀なはず、太陽電池の1/10以下はおかしい、と。
そこで別の数字を持ち出す。例えば量子収率は100%だ。それを見て「やっぱり植物はすごい」と。
量子収率とは「捉えた光のエネルギーを途中逃さず確実に生成物に変換する率」で、捉えない光があることとか、
反応途中で捨ててしまうエネルギーは考えない。一般的傾向として、反応途中で捨てるエネルギーを増やすと
量子収率を上げられるが、エネルギー損失も増えるので「ほどほど」が良い。太陽電池はその点で良いバランスだが、
植物光合成は量子収率を上げることの方に偏って、エネルギーを捨てすぎている印象を持つ。
とにかくエネルギー変換効率では、太陽電池が光合成の10倍以上になるので、次のような考え方をするのが良い。
もしバイオマス生産畑が10ヘクタールあったなら、その内の1ヘクタールを太陽電池に置き換えてエネルギーを得る。
残りの9ヘクタールは食料生産のために、あるいは自然生態系のために割り振るのだ。
動機が“自然崇拝”であろうが何であろうが、バイオマスエネルギーに拘ると、エネルギー生産のスペースが広くなって、
結果的に自然生態系のための場所を奪ってしまうのだ。
化石燃料の代替エネルギー
そこで未来のエネルギー供給をどうするのが良いか考えてみよう。現在は“石油の時代”と呼ばれるように石油中心だ。
正確には石炭や天然ガスへの依存も大きな部分を占めるので、もう少し広く「化石燃料に頼っている」と言うべきだ。
これらの内で、石炭は最も古くから利用されてきて、埋蔵量も最も多い。
それが石油や天然ガスにシフトしてきたのには理由がある。使い勝手が石炭とは大きく違うのだ。
石炭の時代には蒸気機関が主役だった。石炭の燃焼熱を水に伝えて、水が沸騰して蒸気になる圧力で動く仕組みだ。
石油を使う場合は自動車のエンジンのような仕組みだ。石油を霧状にして空気と混ぜて燃焼させるから、
燃焼して高温になったガス自体が膨張する圧力でピストンを押すことができる。
水に伝熱する際の損失がないからエネルギー変換効率は何倍にも上がった。けれども石炭ではそうはいかない。
厳密には粉末状に砕けば空気と混ぜられるが、手間がかかりすぎるし、粉砕のために新たなエネルギー消費が生じる。
使い勝手が理由だったので、埋蔵量は十分残っている段階で石油や天然ガスに移行したわけだ。
けれども石油や天然ガスの埋蔵量は石炭より少ない。石油価格は以前議論した(13, 27)が、既に太陽電池並みの高値だ。
それでも使い勝手の良さから、すぐには代替できない使い道が沢山ある。自動車のガソリンもその一つだ。
だから値段が上がっても需要が急に減ることはなく、掘削に労力のかかるシェールオイルなどを掘っても採算がとれる。
これで石油枯渇の心配がなくなった、と見ても間違いではないが、俯瞰的に見れば時代の転換点が近いことを意味する。
石油枯渇の時代に入った時に予想される事態、まさしくその事態が進行しているからである。
値段が上がって、採掘しても採算割れしていた資源が使われ始める。その位に石油の供給量が需要に追いついていない。
資源が逼迫した初期に起きる現象はそう言うものなのだ。
では、これからのエネルギー供給はどうしたら良いのか? 化石燃料を外すと代替エネルギーの選択肢は意外に少ない。
古くから利用されてきたものは概して開発の余地が小さいと推測されるが、その一つに水力がある。
水力は持続性エネルギーなので上で調べた。その結果賦存量が少ないとの結論だった。
それ以外で現在の日本で主要なエネルギー供給源となっているのは原子力だけである。原子力も枯渇性エネルギーで、
埋蔵量を議論することになる。その話も前に記した。わずか石油の数分の一の埋蔵量だ。
最近話題のもんじゅが目指したのは、ウラン資源枯渇への対応策だった。現在の原子炉はウラン-235を燃料に使用する。
その埋蔵量が限られるけど、ウラン-238ならその100倍以上ある。それを原子炉の中に(混ぜて)入れておく。
いろいろ難しい条件があるが、原子炉の中でウラン-238はプルトニウム-239に転換する。
このプルトニウム-239がウラン-235と同じように原子炉の燃料として利用できる。原子炉で発電しながら燃料を生産する。
“夢の原子炉”(核燃料サイクル) と言うわけである。
ところがである。もんじゅの無様な現状。運用した技術者の緊張感も足りなかったが、それよりもっと深刻な問題がある。
核燃料サイクル実現のための研究は世界的に難航している。どこの研究集団も壁にぶつかっているのだ。
もんじゅの事故として有名なナトリウム漏れ事故は、こうした難しさの現れの一つでもある。
核分裂で生じる中性子を、核分裂の連鎖反応とウラン-238からプルトニウム-239への転換の両方に利用するのだが、
その中性子に必要な条件が難しく、通常の原子炉のように核燃料の間に水を通すことができなくて、ナトリウムを使った。
けれどもナトリウムは化学的反応活性が高くて扱いにくい。配管から漏れて床のコンクリートと激しく反応してしまった。
現状を見るに「難しすぎる目標だったのだ」と捉えた方が良いのではないか?
世界の動向はもはや核燃料サイクル推進でなくなっている。「やってみたけれど難しかったので研究規模を縮小します。」
このような言葉を日本政府は発することができない。間違いを認めることになるから。
ついに日本政府はもんじゅの廃炉を決めた。そこで「遅すぎた決断」と評する。ところが、それでも甘すぎるのだ。
何と核燃料サイクルの推進自体は止めないというのだ。もんじゅが成功した後に進む予定だった研究開発に進むという。
実際にはもんじゅは成功していないのに。硬直化どころじゃない、もう言葉が浮かばない。
少々脱線したが、要するに原子力に対して「化石燃料の代替エネルギー」としての役割を期待するのは難しい情勢なのだ。
結論「好都合な真実」
以上をまとめるとエネルギー問題は、現在の主要なエネルギー資源がどれも頼れない、即ち「全滅」と言うことになる。
そこで現在主要ではないエネルギー資源に目を向けることになる。
上で議論した太陽光だとか、風力だとか、これらが皆その候補に挙がってくる。それらと上記の原子力を比べるのだ。
唯一「単独で賄う賦存量」があった太陽光、これが一番の有力候補であると見て検討しよう。
現在太陽光発電の普及を妨げている最大要因は価格だ。発電単価で「石油並み」だからそんなに高いわけでもないが、
発電単価が問題になっていること自体が、実は太陽光発電の優位な立場を表している。
上記の核燃料サイクルを思い出してみよう。これが実現すれば確かに原子力が化石燃料の代替エネルギーになり得る。
そこで研究開発、だったのだが、その研究開発段階で何十年も足踏みしている。
一方の太陽電池はどうか? 既に研究開発段階を終えて、「普及と共に価格がどこまで下がるか」と言うステージにある。
価格低下と研究開発を同列に比較することは、そもそも科学的には不可能だ。
例えば、核燃料サイクルが実現した場合の発電単価を試算したとしよう。それと実際の太陽光発電の単価を比べる。
だがこの比較は同じものの比較になっていない。様々な仮定を含んだ上で導き出した試算値は、
実経済の中で決まっている太陽電池の価格とは全く別物だ。どのように設計したらいいか分からず研究しているのに、
それを建造した際の価格が試算に必要だ。それでも試算しないと比較できないのは認めるが、信頼性は皆無に等しい。
こういう「絵に描いた餅」と実売価格の違い、これが両者の立場の違いなのだ。
もう結論は分かっただろう。原子力よりも太陽光発電の方が、これからのエネルギー資源として現実的な選択肢なのだ。
翻って当初の議論を思いだそう。
「これからの時代には太陽光でエネルギーを賄うのが良い」
と言われたら、多くの人が「現実はそんな甘いものじゃない」と感じる、と言う話をしていた。それは直感的な感覚で、
「好都合な真実」に対する不安感がそう思わせる、と指摘して今回の話を始めた。
直感は脇に置いて、逐一数字を調べたり論理構造を分析したりしながら、地道に検証した結果が今出てきたわけである。
その結果は直感とは違って、
「これからの時代には太陽光でエネルギーを賄う以外に良い方法がない」
ことが判明したのだった。ただし論理構造を振り返ってみると、太陽光以外の候補が脆くも敗れ去ったからにすぎない。
つまり「太陽光が一番有力」になる程に、エネルギー問題は苦しいのだ。
それでは太陽電池を年間どのくらい設置していけば化石燃料枯渇にに間に合うのか? そう言う試算も試みたことがある。
化石燃料を後何年使い続けられるか決めなければならないが、様々考えて一応可採年数の40年を基準にした。
その結果は「結構なハイペースで設置しなければならない」と言うものだった。
金額に直すと毎年日本の国家予算の10倍くらいを、世界全体では必要とする。
しかもこれは太陽光発電のみの価格で、上に書いた揚水発電による蓄電設備を建設する費用などは含んでいない。
ここまで高額になる原因がどこにあるのか? 思わず「太陽電池が高いから」と思ってしまうかも知れないが、それは違う。
何故なら、太陽電池の発電単価が石炭並みの安さになったとしても、費用は1/3位にしかならず、まだまだ高いのである。
エネルギー供給を全面的に別のものに切り替える年数、40年が短いから、と分析するのが正しい。
長いようだけれども実際には短い。急がねばならない!
(写真について) 佐賀空港前のまっすぐな道路の正面に夕陽が沈んでいくところ。この写真は著書の表紙にも使った。
実際には太陽の光がまぶしかった。撮影するときは直視できないほどの強い光だったのだが、
構図を頭の中で決めて撮影したらちゃんと太陽以外の景色も写っていたので、信号機の光も良く見えるように調整した。
人工光と自然光、今回の主題と微妙にシンクロする。
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