「自然な死」神話       2016.4.21   
    

最近父を亡くしたことで、「千の風になって」の歌について、それまでよりも深いところまで理解したような気がしている。
最初にこの歌を聞いたときも目頭を熱くした。「これがヒットした、って? と言うことは!
簡単に会いに行けない距離に父はいた。時々会いに行った時は、両親のためだけに時間を使う幸せを満喫していた。
父が亡くなって葬儀のあった日の晩に母が悲鳴を上げた。「主人はもうどこにもいない」と。
この言葉は苦しかったが、それから数週間経って感じたのは、「どこにもいない=どこにでもいる」と言う感覚だった。
それまでは父のいる場所は具体的に「○県○町のどこそこ」と決まっていた。その束縛から父が放たれたように感じた。
ある種の逆説だが、もちろん科学的な論理ではない。観念的論理とでも言おうか。
けれどもごく最近になって気づいた観点から見たら、ある意味“科学的”かも知れない。確かに父は“風”になっている。
火葬したときに父の身体は空気中の酸素と結合して、気体になって“大空”に舞い上がっていった筈である。
これまで残った遺骨の方に注意が向いていたが、それ以外の部分の方が身体の中で占める割合が多いではないか!
この事実に気づいて、納得すると同時に、何か不思議な気持ちになった。

さて我々は「自然」の謳い文句に弱い。食品はもちろん衣料などの身体に接するものから「化学物質」を排除したがる。
もし具体的に「自然由来」と「人工化学物質」の境目を考え始めたら、全ての物質が「自然由来」になってしまったり、
それを避けるには恣意的境界線を決めざるを得ない筈だが、そこのところは皆さん深く考えないようで。
拙著で論じたのも、他ならぬ科学者自身が「科学的」と思い込んでいる、学問の世界での「自然崇拝」への批判だった。
昨年末からの父の終末期に際しても、再び「自然崇拝」と対峙しなければならなかった。
一度目の入院
2年前から毎晩両親に電話するようにしていた。昔は時々父から掛かってきて、大した用事もなく長電話でもなかった。
用事と言うほどの用事もなく掛けてくるのは、単に息子と話がしたいだけだろうと思って応じていた。
それが掛かって来なくなり、更に両親の状況が悪化してきて、ついにこちらから電話するように決めたのだった。
もはや電話がリハビリになる程度まで、身体の機能が落ちてきてしまったのである。
施設の夜は早いので、電話できるタイミングは短い。まだその時間は仕事をしていて、電話をどうも忘れてしまうので、
毎日定時にアラームが鳴るようにした。
それでも父は自分の左耳が聞こえにくいことを覚えられない。電話に向かって「右の耳に。」と叫んでも「聞こえない。」
更に電話を切るのも容易でない。「しょうがないから電話を切るよ。」の言葉にも、「聞こえない。」と返ってくる始末だ。
施設のスタッフに分かるように、「右耳に」と書いた紙を父の携帯に貼ったのが去年9月だった。
けれどもその頃から父の身体の衰えは、加速度的に進行し始めていた。スタッフに電話を支えて貰うようになって来た。
仮に話ができたときでも「特に変わったことはない」としか言わないから、私にはよく分からなかったが、
直接様子を見に行っていた妹の目には、坂を転げるように悪化する父の状態が、この時期はっきり見えていたそうだ。
12月上旬に入院したときに、医者から「数日の命かも知れない」と言われた。それを伝える妹からの電話で私は驚いた。
急遽土日を使って父に会いに行くことにした。飛行機と列車で片道5時間・数万円。
到着したときには峠を越していた。つまり助かったのだ。入院の理由は敗血症、血中酸素濃度も危険域に落ちていた。
敗血症は細菌が血管内に侵入して全身に炎症を引き起こした状態。致死率も高い。炎症の数値が診断の決め手だ。
脈拍や呼吸なども常時監視する特別な部屋に入れられていたが、土日の時点でそれらの数値が安定してきていて、
驚いたのは施設にいたときよりも意識がはっきりしているように見えたことだった。
病室を訪ねた私を見て、「おかしいな。まだ息子が来る季節じゃないと思うんだが」 と言うような顔をしていた。
それで悟ってしまったようにも見えた。「自分の命が危険な状態にあったのだろうか? それで駆けつけてきたのか?」 と。
年に3回、正月とゴールデンウィーク、それに9月に私は両親を訪ねていた。その時は12月12日、正月には少し早かった。
帰り際に「3週間したらまた来るね。」と言うと、「やっぱりそうだったか。」 と言う顔をしながら頷いた。
退院前に妹は学校の常勤講師を始めたことを話してみたら、「私立か?」と聞かれたそうだ。
父は元教師。だから学校の内情は知っていたが、ここ最近は全てに気力がなく無理に何か聞かないと口を開かなかった。
私立と公立の学校の内情の違いなど、面倒すぎて考えようともしない筈だったのだ。
入院時に延命措置について聞かれていた。「人工呼吸、心臓マッサージ、昇圧剤」 をどうするか? 必ず聞く決まりらしい。
これらは本人にとって苦痛である、と言う情報と共に尋ねられていた。
この3つは良くても数日の延命効果で、それによって私が佐賀から駆けつける猶予を確保できるかも知れないが、
心臓マッサージに至っては、強く胸を押して肋骨が折れると言うから、それは本人は痛かろうと思った。
幾ら「終末期には痛みを感じる神経も機能を低下させて、余り苦痛を感じないようになる」と言っても、さすがに痛そうだ。
だからこれらは断ることにした。
担当のお医者さんは「当然断るよね。」という感じらしかった。けれども父の場合は回復したので、退院後が問題になった。
別の種類の延命治療、例えば胃ろうをするかどうか? そうしたことが問われ始めた。
人工栄養 = “不自然な死”
食べ物によって口から栄養を摂ることができない場合、最も身近な栄養補給方法は栄養点滴だ。他にも幾つか方法があり、
終末期の人に良く適用される方法は、大きく3つあると言う。医者から聞いて、更にネットでも確認した。
1. 経鼻栄養 ・・・ 鼻から胃にチューブを通して、チューブ内に流動食を流す。
2. 胃ろう ・・・ 腹部から胃に通るカテーテル(蛇口のような役割)を取りつけ、流動食を流し込む。
3. 中心静脈栄養 ・・・ 栄養点滴の一種だが、太い血管に点滴する。
これらの方法を終末期の老人に適用すると、寿命を延ばすことができる場合があるのだが、最近は避けられる傾向にある。
本人が食べられなくなったときに人工的な栄養を与えなければ、常に眠っているような傾眠状態で、苦痛を感じることなく、
枯れるように亡くなって行くと言う。
もし何もしなければ安らかに死を迎えることができるのに、人工的に栄養を供給して無理に長引かせている。
これは家族の我が儘で、死期を迎えた患者本人のためになっていないのではないか?

本人には意志表示ができない、もう少し正確に言うと、医療技術の中身を理解した上で意志表示する認識レベルにはない。
その場合は家族の意志が尊重されるが、さあそれではどうしたものか?
まず前提として父自身が苦痛ではダメだろう。ここまでは簡単に一致した、と言うよりも話の前提条件に近い扱いだった。
それでは人工栄養は行わないのが良いと言うことになる、と思って調べてみると、どうも話が合わない。
3つの方法の中で、特にやり玉に挙がっているのは胃ろうだが、胃ろうが本人にとって苦痛になる原因を探した。
ところがどうも出てくる話は、「チューブに繋がれて可哀想」と言うもので、これは家族から見た印象である。
家族の目から見たのではなく、本人の視点から見る必要がある。具体的には「痛い」とか「苦しい」と言った実例が必要だ。
もちろん終末期にある患者は意志表示ができない場合が多い。当初は「それが原因で証言が得られないのか」とも思った。
けれども後に分かったのは、色々な状態の患者がいて苦痛の意志表示程度ならできる場合も多い。
何と父自体がこの後その実例になっていくのであるが、当然ながらこの時点ではそれは分かっていない。
一方まともに理解できたのは、「植物状態のまま胃ろうで何年も長生きした結果、家族が破産した」という悲劇である。
これは冷静に見るならば、患者本人の望む治療を逸脱している場合が多いと思うが、家族から見るとそんなに簡単でない。
自分たちの生活のために親の治療を制限して良いのだろうか?
調べていく内に私は疑いを抱くようになった。胃ろうが患者にとって苦痛である、と言うのは実は誤魔化しではないのか?
自分たちの生活を優先する後ろめたさ、のようなものがあって、それを打ち消すために“本人の苦痛”が必要だった。
本当は後ろめたいことではないと私は考えるが、そのように受け止めることは、普通の人間には難しすぎるように思った。
「本人からの目線」を徹底して「自分目線」を完全に排することができる人間でないと無理だろう。
とにかく資金面については父の場合心配する必要がなかった。本人が老後の準備を含めて資産管理には大変熱心だった。
と言う訳で、仮に「家族の破産」が問題だとするなら、それは該当しないと判断できる。
母の切なる願い
では胃ろうをやった方が良いのだろうか? 3つの方法の中で胃ろうを一番最初に検討する理由が、別のところにあった。
入院前から長らく施設のお世話になっていて、そこでは毎日母と会うことができる状態だった。もっと前の入居当初には、
母と一緒の部屋で生活していたのが、父の状態が悪化して、同じ建物内で介護の充実した部屋に移っていた。
通常の施設では人工栄養の状態では受け入れられないのだが、この施設では胃ろうに限り受け入れ可能と言うことだった。
そこで胃ろうを中心に考えることになったわけである。
母は人の名前を忘れてしまうようになって、ご近所の名前は暫く前から、近頃では親戚の名前まで怪しくなり始めている。
元より社会の出来事には関心がなく、家で新聞を読むのは昔から父と我々子ども達だった。
そんな母にとってほとんど唯一の関心事は父のこと、と言う状態になってから、もう久しかった。
けれども母が父の部屋を訪ねて行っても、父は目を閉じたままで、母の声かけに「うーん」と言うのみになっていた。
そのことが母には大変辛かったようで、毎日の電話では父の話がほぼ全てだった。その父がいなくなって母は大丈夫か?
入院してからも状況は同じで、毎日の電話の内容は「次はいつ面会に行けるのか」 ひたすらその話が繰り返された。
そんなに望んだ面会でも、行くことのできたその当日の夜の電話では、もういつのことだったか思い出せないのだ。
無駄のようだが多分そうではない。お年寄りに接すると言うことは結果の残らないことの繰り返し、それで良いのだ。
父に会いたい気持ちが止まらない。そんな母の様子に私は「お母さん、まるで恋する乙女みたいだな」などと感じていた。
だから胃ろうによって母の近くにいることが可能になる、と言うのは結構な朗報だった訳だ。
そこで胃ろうにする可能性がある、と担当医には伝えてあった。だから容態が改善して改めて胃ろうに関して聞かれた。
もし胃ろうに移るなら準備が必要だという。それはまず経鼻栄養から始めると言うことで、
経鼻栄養の期間が最低でも3週間は掛かるのだそうだ。ところがこれを聞いて大きな問題があるように感じた。
実は胃ろうの苦痛が実際どうなのか調べていたとき、ごく早い段階で経鼻栄養には苦痛があることを確認していた。
鼻から通したチューブが異物感になって、しばしば本人が抜いてしまったり、チューブ挿入時にも失敗のリスクがある。
間違って気管の方にチューブが入って肺炎などの原因になることもある。
父の場合、敗血症の原因を遡ると肺炎だった。そして入院した時は咳き込んで苦しそうにしていた。まさに苦痛である。
それが再発してしまうリスクがある、と言う意味でもある。それでなくとも異物感は充分に苦痛である。
3つの人工栄養の方法の中で、経鼻栄養だけがはっきりと苦痛であることが分かり、それ以外は苦痛とは言えないかも。
そう言う認識のところに、経鼻栄養を2-3週間以上、と言われたのだ。
元々今回の入院で回復しない危険性もあった父が、もはや長く生きられるとは期待できない。今更何のための苦痛か?
苦痛の結果、得られる果実が小さすぎる。
学会に追いついていない現場
更に胃ろうに関してはもう一つ問題があった。一度始めたら中止できないというのだ。だから開始しないことだと言う。
胃ろうを含めて栄養供給を止めることは、患者を死に追いやることになるから、法的に問題があるとも言われる。
ところがこの後で書くように「胃ろうを行わない」と決断するときも、結局は同じ問題に直面する。
栄養を供給すれば生命が維持される状況で、それを行わないと決断すると、やはり患者を死に追いやる点で同じなのだ。
この問題には間もなく私達も直面せられることになる。
従って「開始しない」と言うのは、罪悪感を小さくするための手立てではあっても、本質的部分では解決になっていない。
こうした問題に対して、2012年に日本老年医学会がガイドラインを作成しているのを見つけた。
ご興味がおありの方はネット検索していただければすぐ見つかる筈だ。タイトルは長いが、
「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン 人工的水分・栄養補給の導入を中心として」となっている。
本文も長いが、読んでみると法的な問題に関しては、多くの法曹関係者の助言や賛成意見を受けた上で、
適切な手順を踏んで意志決定が成されたならば問題がない、と結論づけている。
適切な手順とはどういうものか、それが具体的に記されているのだが、ポイントは2つあるように読み取った。
1. 意志決定に全ての関係者を参加させる。家族、医師、看護師、ケアマネ etc.
2. 意志決定プロセスを記録に残す。
既にこのガイドラインができてから年数が経つので、実際にこの手順に従って栄養供給を止めた例もあるようだ。
そしてそれは学会発表・論文発表もされて、NHKでも取り上げられ、それでも警察からの問い合わせはない、と言う。
元々法的な問題というのは、明確にそれが禁止されている条文があったわけではない。
むしろ明確に許されるとも書かれていないことで、事態に直面した家族や医療関係者が感じる不安による所が大きい。
つまり「人工栄養を止められないのでは? 開始しないことも許されないのでは? 安全策を採るべきだ。」と。
だから開始しないことさえ許さない医療機関もある。そう言う中で父がお世話になった医療機関は、中間的な考えだった。
「開始しないことは可能で、お勧めだが、途中で止めることはできない」と言うのである。
確かに父の場合には医療費に困る状況にはない。とは言っても植物人間になってしまったらその後も生命維持すべきか?
そのようにして止められなくなってしまう実例も多数あると聞く。
現実には父が胃ろうをしたとしても、そんなに長生きできるようには思えないのではあるが、
学会の先進的取組を知ってしまうと、「現実の医療現場の状況には大きな欠陥がある」と、彼我の差を感じざるを得ない。
「一度始めると停止できない」 これが胃ろうの2つ目の問題点だった。
そこで胃ろうのための経鼻栄養を断って退院することにした。これは延命治療に否定的な担当医の考えにも沿っていた。
だが私は疑っていた。退院しても食べることができずに衰弱死するのではないかと。
退院前「経鼻栄養を始めるか否か」などの話が出る少し前の頃に、父の嚥下(飲み下し)能力が調べられていた。
その結果は悲惨なもので、ほとんどまともに飲み込むことができない、と言うものだった。
その状態のまま退院すると、食べ物が飲み込めないので1週間かそこらで栄養不足に陥って、1ヶ月以内には確実に死ぬ。
妹に確認を頼むと「退院したら食べると言うことである」と。
それを聞いて私は変な言い方だと思った。普通に「食べられるから安心しなさい」と言うのでなく、「~ことである」とは?
実際には食べられないのだけど、そう言ってしまっては退院できないので「表向き食べる」と言う意味ではないか?
こういう時にはこれまでどうしていたのか。言葉に裏がありそうだと感じたときに、最も頼りになるのは父だった。
父が「○○の可能性が高い」と言えば、その後は大概○○であることが判明したものなのだが、...。
そこでこの退院は私にとって別の意味を帯びてきた。本当のところは食べられないかも知れない、真実を確認する退院。
この退院は私が正月休暇を利用して両親を訪れる機会に合わせるようになっていた。タイミング的にそれが可能だった。
いずれにしても恐らく父と母が同じ建物に暮らせる最後の機会になる。そして私にとっても。
つかの間の退院
退院直後から「ほとんど食べられない」と施設の職員から連絡が来た。やっぱり!! 退院が決まった直後の話もあった。
担当医は「退院して最悪1週間しか生きられないこともある」と言うのだ。
「まるで殺すために退院させるようだ。」と妹は動揺していたが、これも「実際には食べられない」ことを示唆していた。
けれども退院してみると「食べられない」の中身が入院前と変化していた。
食事の介助をする職員に「食べたくない」と意志表示する、と言うのだ。元々は食べさせようとしても眠ってしまうだとか、
意志表示はほとんどしなかったし、その時の方が良く食べていたのだった。不足するとは言え死に至るほどではなかった。
ところが退院してみたら、栄養ゼリーを“ひとかけら”位しか食べない。
そもそも肺炎の原因が逆流性の誤嚥だった。食べた後に胃から食べたものが逆流してきて、気管に入ってしまった。
つまり因果関係の順番はこう。逆流性誤嚥 → 誤嚥性肺炎 → 敗血症。
食べた後にすぐ横になると逆流しやすいので、寝ないように座らせてくれていたのだが、それでも逆流してしまった。
だから食べさせることにはリスクがあった。再び逆流性誤嚥を引き起こすかも知れない。そうすれば再び咳き込む苦痛。
それを承知しての退院でもあった。
本人が嫌がっているのなら、元々食べることにはリスクもあるので、「欲しがる以上には食べさせない」方法もなくはない。
それは死への最短コースでもある。けれども本人の苦痛を避ける意味では、現状では最善と言えまいか?
食べたくないのに食べさせられるのは苦痛に違いない。どのみち吐き出してしまうのだから、結局食べないのだが、
吐き出したくなるような食事が口に運ばれるとしたら、それは大いなる苦痛に違いないのだ。
けれども施設として「食べさせないことはできない」という。それは当然かも知れない。死んでしまうに決まっているから。
更に食事の介助をするには昼間に起きていて貰う必要があり、昼夜逆転しないように昼間無理に起こしていた。
それも施設としては仕方がないことだ。特定の入居者が最近昼夜逆転したから、スタッフの勤務時間を変える?
そんなことできる訳がない。その一方で「もう人生の最終盤の段階なんだから、好きな時間に眠らせてあげたい」と思った。
施設の立場を理解しながらも、本人には好ましい状態と思えなかった。
“自然な死”の神話
思い出してみよう。目指す“自然な死”、それは「食べられなくなったら、徐々に枯れるように死んでいく」と言う話だった。
それが苦痛もなく施設としてもお勧めだというのだが、実際にはその“自然な死”も苦痛に満ちていた。
「自然とは結局何を意味するのだろうか?」
食事の介助で食べさせるのは自然だけど、胃ろうとかで胃に流動食を流し込んだら不自然になる? どこが境目なんだ?
睡眠時間が昼夜逆転するのは“不自然”で、それを矯正するのであれば“自然”と言うこと?
明らかに食事の介助もしない方が本人には苦痛が少ない。すぐに死んでしまうが、その方が益々自然と言えなくもない。
けれども人間は社会性のある動物だから、文明以前から食事の介助はしてきたはずだ。多分ホモ・サピエンス以前から。
それなら動物としての人間の自然な死には、やはり食事の介助を含むのではないだろうか?
“自然な死”には苦痛がない、と言う話だった筈なのに、現実はそうではない。
当初から私には分かっていた。自然だろうが人工的だろうが、どちらにしても、苦痛な死と苦痛でない死の両方がある。
食べられなくなって食べないことで、苦痛を感じずに枯れるように死んでいく人が、実際に存在している。
それを見て「自然だから苦痛がない」と勘違いしてしまったのだ。そう、人間は“自然”に弱いからすぐ信じてしまう。
元来自然な死には他にもいろいろあって、病死の類には激しく苦しんで死ぬ場合もある。当たり前のことだ。
今まで目にした昆虫の死で、一番苦しそうに見えたのは、腹部が腐り始めてそれでも必死に呼吸をしている姿だった。
悶え苦しみ、額に脂汗滲むかのような姿。それも彼らにとっては自然な死の1つである。
自然かどうかに関わりなく、苦痛な死と苦痛でない死がある。その中で苦痛でない死を選ぶ、と言う人為的操作をしたい。
それは間違いなく“不自然”な操作だと思うが、自然崇拝の思想の中では“自然”に置き換わってしまうのだ。
だから今度は逆に“自然”を出発点に考えて見たら、自然なのに苦痛であったりして、話が合わなくなって来るのである。
初めから私は「“自然な死”=安らかな死」の図式に疑いの目を向けていたが、やはり間違っていた。
退院するときに医師からは、「最短一週間しか生きられない」の他にも、今後の父が辿りそうな別の可能性が示されていた。
「こうして退院しても多くの人がまた誤嚥性肺炎で運ばれてくる。良くてもそうなる可能性が高い」と言うような内容だった。
それは何を意味するのか。
「多くの人が“自然な死”の教えに殉じて、苦しみながら死んで行っている!」
誤嚥も肺炎も苦しいが、終末期の老人には普通の症状で、“自然”という意味では確かに“自然な死”の流れの一コマである。
「自然であれば苦しくても良い」と考えるとすれば、それはもはや殉教に等しい。
原因は胃腸だった
とにかく食べることを父は嫌がっていた。嚥下能力に問題があると聞いていたから、「飲み込めないのか?」と父に確認した。
当初からの予定通り施設に両親を訪ねた私は、父の嚥下能力がどう言う状態なのか確かめようとしたのだ。
ところが父は首を横に振る。暫くしてまた「喉に引っかかるのか?」と聞いたが、それも否定する。
施設の職員の中には父が食べようとしないことに対して怒っている人もいた。
それは父のことを大切に思っているからこそなのだ。理由もなく食事を拒否して自ら死を急げば、そりゃ怒るわけである。
しかし本当は何か理由があるはずだと思って私は考え続けた。
父が眠っているときに施設の職員が部屋に来て、父の排便の状態から見て、ほとんど消化・吸収できていないと聞いた。
それで気がついた。もしかしたら嚥下能力がボトルネックになっているのではなくて、消化能力の方かも知れない。
翌日父が起きているときに聞いてみた。「食べられないのは、お腹のせい?」 この問いに初めて首を縦に振った。
間違いない。嚥下能力ではなかったのだ! 問題を抱えていたのは消化能力の方で、それで食べることを拒否していた。
それなら対処方法も違ってくる。
前日に「消化能力ではないか」との仮説に至ったので、夜の内に調べてあった。この場合、まず胃ろうは全く役に立たない。
消化できない胃腸に流動食を流し込んでも、吸収できる栄養分は少しも増えない筈だ。
既に口から流動食を与えて、それが消化できないから拒否したり吐き出したりしているのだから。
逆に弊害がある。胃ろうで強制的に流し込むと、それを吐き出すことになってしまい、再び逆流性誤嚥を引き起こす。
これでは本人の体力を削いで、苦痛も増大させる結果になってしまう。
だから担当医は「経鼻栄養が3週間以上も必要だ」と言っていたのかも知れない。つまり「その間に胃腸の訓練をする」と。
しかしそれは父には絶望的に苦難の多い訓練だ。
もう父にリハビリは必要ない。残った身体機能だけを、苦痛のない範囲で支えてあげれば良い。
だから胃腸は休ませてあげる。既に悲鳴を上げているのだから、一足先に胃腸はリタイアでも構わない。

既に父の膝は曲がった状態で固まっていて、退院後は伸ばすように処置されていたが、伸ばすだけで何日も掛かっていた。
このような状態を見て「下半身が先に機能を停止した」と感じていた。これは「身体の部分毎に機能停止」という発想である。
だとするなら胃腸が脳神経より先に機能停止しても不思議はない。
ここで若者が対象なら「胃腸の機能回復を目指す治療」を考えるのが普通だ。しかし治療には苦痛が伴う。
更に、回復の見込みは低く、たとえ幸運にして回復しても食事で栄養を摂れる状態を長く維持できる可能性はゼロに等しい。
期待される恩恵が治療の苦痛に見合っていない。
もし「自然な死こそ正しいのだ」と正義を振りかざせば、胃腸が機能停止したら栄養が摂れないのだから死に至るのが自然。
仮に身体の他の部分がまだ生きていても、それは胃腸に道連れにされて死んでいくのだ。
けれども私はそうは考えなかった。精神活動を司る大脳はまだ働いていて、栄養を供給すれば相当高度な思考さえできる。
ただし胃腸がそれを支えられなくなっているので、胃腸の代わりに医療技術によって栄養を供給すれば良いと考えた。
父のための治療方針
そこで父の終末期の平安を得るための治療は、誤嚥を防いで胃腸を休ませつつ大脳に栄養を送るものでなければならない。
そうすると3つの人工栄養の中で、中心静脈だけが候補に残る。胃腸は飛ばして血管内にダイレクトに栄養を入れる方法だ。
正確には中心静脈でなくても、栄養点滴全般がそれに該当する。
普通の栄養点滴はもっと細い静脈に点滴するのだが、それを末梢静脈栄養という。
若い人でも入院して栄養点滴を受けることは良くあるが、それは通常末梢静脈の方だ。そして老人に使用する場合も多い。
父が入院していたときに受けていた点滴も末梢だった。
そこで末梢静脈と中心静脈の違いも調べてあった。前記の通り入院時に意識を大幅に改善したわけだが、その功労者は、
末梢静脈からの栄養供給であろうと推測していた。そのため末梢静脈にも元々興味があったのである。
入院前の傾眠状態を解釈すると、脳に充分な栄養が行き届かず、そのため脳の活動が低下して、
日々うつらうつらと過ごしていたのではないか? それを私達は脳自体の衰えだと勘違いしていた、と言う訳だ。
と言うのも父は施設入所から1年ほどの間に、脳が圧迫されるタイプの病気を2つも患って、運動機能にも後遺症があった。
更にCTなどを撮れば、脳が萎縮して頭蓋骨との間に隙間ができているのがはっきり見て取れる状態だった。
もう一つ付け加えると、父の排便の状態が悪いことも判断材料だった。それを聞いたのは退院した後のことだったが、
症状自体は入院よりも前から続いていたというのだった。
症状というのは、食べる量が充分でないのに消化不十分な柔らかい便が出てくる。それにも関わらず便秘気味だったという。
このような状態では、食べた量から期待するだけの栄養を吸収できていなかった可能性が高い。
エネルギーを多量に必要とする脳の働きが、栄養不足で抑制されても不思議ではない。そう考えて調べてみると書いてある!
栄養が充分でないと脳の活動が低下して、擬似的な認知症状が出るという。予想通りだ。
それなら末梢静脈に栄養点滴すれば良さそうだが、実際の老人医療で中心静脈が選ばれることが多い理由は何か?
人間が必要とする栄養の量が点滴で送り込まれる量に比べてかなり多い、と言うのがこの問題のルーツらしい。
必要な栄養量を点滴すると、その場所の血液中に含まれる栄養の濃度が高くなりすぎて、血管が傷ついてしまう。
何日も続くと注射針を刺した箇所に炎症を起こして、その場所からの点滴はできなくなる。
そこで別の場所に針を刺し換えて点滴を続けるが、そこも何日かして使えなくなりまた新しい場所へ、と次々刺し換える。
こうやって全身に炎症箇所が増えていって、2ヶ月ほどで体中どこにも針が刺せなくなって終わる。
それに対して中心静脈では、元々血管が太いので血流量が多く、点滴した栄養が血液で薄められて、濃度が高くならない。
その結果炎症が起きにくい、と言う仕組みである。
ただ中心静脈でも1-3ヶ月に一度刺し換えなければならい。どうしても外から細菌やカビなどが点滴と一緒に入ってしまい、
そうなるとやはり炎症が起きて、別の場所に刺し換えなければならなくなる。
この2つを比較してどうだろうか? 最優先は上記の通り父の苦痛が小さいことだが、炎症の頻度が中心静脈の方が少ない。
更に期待される生存期間にも違いがあった。中心静脈の生存日数が平均約半年(個人差大)、と言うのを見つけてあった。
末梢静脈ではそんなに長くは保たないので、選ぶ理由がないように思われる。
ならば中心静脈で栄養を補給することで、父に良い状態を実現できるのではないかと期待した。意識が明瞭で苦痛もない。
苦しむくらいなら意識朦朧として苦痛が分からない方がよいと思うが、苦しまないなら意識ははっきりしている方が良い。
この結論を以て、施設の職員の内の1人と妹と3人で話し合った。
職員は「それなら少しでも早く入院させた方が良い」と言う。現状では毎日ほとんど絶食状態だから急激に衰弱してしまう。
すぐにも療養型の病院に入院できるように手配することになって、第一候補の病院を決めた。
二度目の入院 ~ 最後の1ヶ月弱
翌日には病院に連絡し、今日にも入院可能とのこと。急展開! だが妹が体調不良で動けない。私は滞在の最終日だったが、
入院に立ち会うことになった。病院までの車の移動も父にとっては相当な負担である。
病院では簡単な検査の後に付き添いで来ていた私と施設職員の二人が呼ばれた。
検査結果の説明の後に、治療方法の選択肢が幾つか示されたが、医師の結論も「中心静脈栄養が一番のお勧め」だった。
医師から前の病院での「延命治療なし」の意志表示との齟齬について尋ねられたが、「一応確認する」と言った雰囲気だった。
とりあえずその場は「少し行き違いもあった」という具合に説明して置いて、佐賀に戻ってから詳しく手紙に書いて送った。
中心静脈栄養は父にとって、延命治療と言うより「食べる苦痛を避ける」ためのペイン治療だった。
入院するまでしか見届けることはできなかった。だから私には不安が残った。父のための治療方針があれで正しかったのか?
ほぼ徹夜で調べて考えたし、最善は尽くした。後から何か思慮不足が見つかると言うこともなかったが、
結果は病院での父の様子を見れば分かる筈のものだ。穏やかに過ごしているのか? それとも苦しみに顔を歪めているのか?
電話で妹から聞く情報が全てである。大変穏やかに過ごして会話もできていると言う。
更に口から食べる量も増えたという。胃腸の活動にも栄養が必要であろうことは容易に想像が付く。だから予想はしていた。
これまでは胃腸の消化不良で栄養不足、その栄養不足が原因でまた胃腸が不活発になり消化不良、という悪循環もあった。
それが点滴による栄養補給で改善したのである。ただしこうして好循環が始まったとしても、それで完治するとは思えない。
元々口から食べていたのが徐々に減ってこうなったのだから、既に胃腸の能力は胃腸自身を支えられないレベルにあるのだ。
それをある程度改善する可能性がある、とは思っていたが、予想以上に明瞭に効果を現した。
「これなら3月に行く時まで生きていてくれるかも知れない」と期待し始めた頃に急変した。再び炎症、様々な機能不全に陥る。
血圧が測定できないほど低下して、計器で測っても触診しても脈が見つからないと言う。「え! それは心臓死ってこと?」
翌日持ち直した。妹は仕事を休んで付き添った。声は出せないものの、長時間に亘って目を合わせて意思疎通したそうだ。
このとき医師が「お父さんは今ほとんど何も苦痛を感じていない筈です」と言ってくれたそうだ。
妹の目にも、父は安らかな状態で自分の方を見つめているように見えたと言う。父の娘への慈愛を感じたという。
そのときの様子を聞いて、後になってから私なりに種々試してみて得た結論は、父は何も思い残すことない程の平安にあった、
と言うことだった。
急遽次の週末に私も行くことにしてあった。翌日は金曜で、明朝には家を出る。夜の内に準備をするために、早めに帰宅した。
そこに「再び容態が急変して危険な状態だ」との病院からの連絡があった。
「いつ電話があるか」その晩は落ち着いて寝ることができなかった。翌朝「できれば持参したくないもの」即ち礼服も鞄に詰めて、
家から空港に向かう途中、妹から「昨晩亡くなった」と電話を貰った。
結局自分の目で確かめることはできなかった。けれども担当医も私の意図を理解して下さって、それを目指して下さったようだ。
求めていたものを私は父に提供できたような気がした。
普通は単純に「○○の治療は行わない」などと予め決めておく。入院時に私も念書を書いたのだが、医師は従わなかった。
最終段階で使う延命治療3点セットの内で、昇圧剤だけが苦痛の理由が不明なままだったのだが、
医師は父の状態から「この場合は昇圧剤を使った方が良い」と判断して、結果的に妹との「目の会話」の一日を作ってくれた。
上記のように中心静脈栄養がペイン治療になったり、同じ治療法の意味が状況に応じて変化する。それが私の考え方なのだ。
それを理解して医師も単純な対応を取らなかったのだ、と妹も私も感じた。
「まずは人生最後の時間を安らかに。それが第一。」 「そして臓器の生命活動ではなく、大脳の精神活動の方を維持したい。」
欲したのは「平安」だ。「自然」とか「人工」とか関係なかった。どちらでも良いのである。
母の受容
先に述べたように母が心配だった。周囲で世話してくれる人の名前とか、他の入居者の名前とか、入居当初はすぐに覚えた。
一緒に入居した父が辟易とするくらいに、出会う人全てに声を掛けて、次々とお友達を作るように行動していた。
ところが今となっては父以外は名前も分からないし、関心がないような状態になってしまっていたのだった。
そうなってしまうにはきっかけがあって、それには父のことも深く関係していた。
父は入居前の実家での転倒が原因で、脳に障害を持ち、入居して1ヶ月で入院し、退院しても再発して検査・入院と、
良くなったり悪くなったりを繰り返していた。それが1年ほどでどうにか一段落して“程々の状態”で安定するようになった。
けれどもその後も徐々に父の運動機能は低下して、歩くなどの日常動作にも不自由するようになってきた時期のことだった。
母は父のために「もっと検査して治療できるはずだ」と考えたが、施設の職員は「できることは全てやった」と考えていた。
更に母自身もこの時期に身体の不調を抱え始めて、それも検査したが異常が見つからず、これと言った治療もできなかった。
母は訴えが聞き入れられないことに変調を来すようになってきて、食欲不振に陥って衰弱し、とうとう寝たきりになってしまった。
その時に知人の名前などのほとんどを忘れてしまったのだ。
母に来た年賀状を私が読み上げたら、母の友人なのに誰だか分からず、父が教えてもダメだった。父はショックを受けていた。
その時から母は父以外の入居者や施設のスタッフなどへの興味を持つことができなくなってしまったのだった。
意識的ではないのでこの場合「ハンガーストライキ」とは言わないだろうけれども、今回もそこに陥ってしまう危険があった。
それを避けるには「父は充分な治療を受けた」と母に納得して貰う必要があると考えた。
しかし父の命がもはや短いことを、母は理解できていなかった。このままでは「突然亡くなった」と言う具合になり兼ねない。
そこで私は繰り返し話をした。「ほとんど全く食べないから、この調子だと一週間くらいしか生きられない」と。
母は「そうは見えないけど」と驚いていたが、何度も話をした。と同時に「入院すればもう少し生きられる方法もあるが」と。
父が入院することは、母にとっては毎日会うことができないから辛いことに違いない。
その点をどう感じるのか不安だったが、聞いてみると母は明確に意志表示した。「入院して欲しい」断然その方が良いという。
そして今度は「早く入院して欲しい」と、そのことに必死になり始めた。
結局その後父が命を保ったのは1ヶ月足らずだったわけだが、母はその結果に肩を落としつつも納得することができたようだ。
「もう仕方がなかったんでしょうね。あんなに何度も入院して、いろいろやって貰ったんだから。」
母は私の前で呟くようにそう言った。父を失った悲しみの中で、その言葉の意味を私は考えた。
以前と違って「まだ治療する方法があるのに」とは思っていない。「万策、手を尽くしてくれた」と受け止めてくれた、と言うことだ。
最低限それが母のために必要だと私は考えていた。一番恐れていた事態を回避できたのだ。
追補 (2019.5.10) 母は先日なくなりました。この事があってから3年余り後になります。父の時とは状況がかなり違っていて、
まず認知症が大きく進んで最後には本人の人格も見えなくなってしまったこと、それと突然だったことです。
父のように「もう駄目かも知れない」から持ち直すようなこともなく、病院スタッフが見たときは既に心肺停止だったのですが、
その30分前には普通にしていたとのこと。これは命に関わるような入院でなかったため、全く予想しない展開でした。
死を迎えるときの苦しみがどうであったかは不明ながらも、仮に苦しみがあったとしてもごく短時間だったことは確実でしょう。
何もしてあげる機会なく終わったけれども、良い方法を自分で選んだかのような結末でした。
「助けてくれ」
この言葉は一度目の入院中に私が病室を訪ねていたとき父が発した言葉だ。頻繁に咳き込んで苦しそうにしていた時なので、
ほとんど言葉を喋っていない状態だったのに、ひときわ明瞭で大きな声に驚いたのだった。
そして内容にも驚いた。何事にもひたすら耐えて弱音を吐かない父から、後にも先にもこの一度しか聞いたことのない言葉だ。
絶句して私は父を見るが、その一言だけでそれ以上何も言わず、静寂に包まれるばかりだった。
タイミングも衝撃だった。看護師が訪れて心臓マッサージ等の“最終盤延命治療3点セット”について尋ねられた少し後だった。
それには「必要ない」と断ったのだが、入院前の父の傾眠状態であればその会話を聞いて理解することは考えられなかった。
看護師も父の目の前で聞くからには、父には聞こえないか理解できないか、そう判断しているものと思って答えた。
けれどもこのとき私は、父が入院前よりも意識がはっきりしてきている可能性があることに、既に少しずつ気づき始めたいた。
それ故この「助けてくれ」は、益々衝撃的だったのである。
助けると言うのは具体的にどうすることなのか、それがずっと頭を離れなかった。その後私が父にしたことは上に書いた通り。
具体的には中心静脈栄養だったわけだが、それは父のその時の状態から判断して、「平安」を得る最良の選択と見たからだ。
それが本当に父の「助けてくれ」への答えになったのか、その点だけは未だに確信が持てないでいる。
※ 追記
この内容をご家族の終末期の参考にされる方のために、今回私が理解したことで上に書ききれなかったものを記します。
・ 敗血症は致死率の高い重篤な病態だが、苦痛については小さく、誤嚥や肺炎で咳き込んだ状態の方が断然苦しい。
 … 本来的に苦痛の大小は経験した本人にしか分からないので、この手の結論には常に推測が含まれる点に含み置きを。
・ 食事(の介助)を絶って傾眠状態から死に至るのは、終末期を平安に過ごさせる有力手段である。
 → ところが食事介助を止めることは、人工栄養を中止するのと違い、老年医学会のガイドラインにも書かれていない。
 → そのような事情から考えて法的に問題がある可能性を私には否定しきれなかった。
・ 嚥下能力より消化能力が先に落ちた父のケースよりも、逆の順序で衰える人の方が多い模様だ。
 → その場合は胃ろうが適切。中心静脈よりも生存期間の期待値が長く、その反面、破産などのリスクも大きくなる。
 … 胃ろうも状況次第でペイン治療の役割を果たし得るが、それは大脳の活動状況など、身体全体の状態に依存する。
 … 胃ろうに関わる苦痛で唯一見つけたのは、腹部から胃に開けた穴の周りに炎症を引き起こす場合がある、と言う点。
 … 胃ろう前の経鼻栄養は「多くの場合に行う」との記述しか見つからず、現時点では理由がはっきりしない。
・ 大脳の精神活動の有無で生命を維持する必要性を考える立場もある。
 … 例えば外からは植物状態に見えても、本人は長い長い夢を見ているかも知れない。それを区別したいとする。
 → ところが通常脳死と言う場合、自律神経の活動の方を見ていて、大脳死は現在の診断技術では検出が難しいようだ。
これで主要な点は尽くしたように思うので以上で終わりにします。他は本文をご覧下さい。

(写真について) 一昨年の暮れに実家で見つけた新聞の切り抜き。元の切り抜きは縦長なので半分に分けて並べてある。
これを切り抜いたのは父に違いない。父は仏像が好きだった。信仰の対象と言うよりも芸術品として好きだった。
記事には「この仏像が文献記録から従来言われていたよりも古く、寺院創建時のものだった」と言うような事が書かれている。
後の火災で一部分しか残らなかったから残りを作り直した、と書かれているのに、仏像全体が同じ組成比だったと言う。
そしてこの仏像の様式も鋳造技術も、火災のあった時代のものではなく、古い時代のものである。
元々その点が奇妙だったという。もし記録の通りなら「古い時代の様式と技術を、どうやって後の時代に再現できたのか?」
飛鳥寺には多分私も行っているはずだ。高校生の頃に何度か奈良に行き、父には色々と教わった。なじみ深い仏像だが、
写真でもお馴染みなので、地図で当時の記憶を辿った。飛鳥寺があるのは亀石とか酒船石とか、面白い石の遺跡の近くだ。
そこは確かに歩いた地域だ。その「石の文明」の話を1年半ほど前にテレビで見て、その話を電話で父に話すと、
もはや父はそれが分からず、「面白い話をありがとう」などと言う。父の専門なのに。
この切り抜きの上部には不思議な書き込みがある。「2014.9.21 朝日夕刊」 一旦“10”と書いてから“9”に修正してあるが、
いずれにしても父は今の施設に入ってもう実家にはいなかった筈の時期だ。もちろん一時帰宅もしていない。
ネット検索してみて判明した。この記事は2012.9.25辺りに掲載されている。これは父が施設に入居する直前の時期に当たる。
だから日付が不確かで、文字も震えているのだ。


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