食料と人口に関する「不都合な真実」    2017.1.17 
   

さて前回積み残した人口の問題に関する見解を記したい。初めに白状しておくと、調べきっていない部分があるのだが、
前回と話が一続きなので、現時点で分かっている範囲を記すことにしたい。
国連の中位推計では、数十年間は人口が増え続けるが、その後増えなくなって、120億人程で安定することになっている。
だから120億人の人口を支える前提でエネルギー供給を計算したのだった。けれど、その推計の妥当性は大丈夫なのか?
ここで実のところ重要なのは、人口増加が抑制される理由の方である。国連中位推計では
「途上国にも家族計画が普及する結果、人口増加が止まる。」
ことになっている。つまり飢餓とか戦争とかそういった原因ではなく、人々が自らの意志で出産数を減らす、というわけだ。
家族計画とは具体的には、避妊(や中絶)と言うことになり、それによって人口増加が収束すると言う。
国連の人口推計には中位推計の他に、高位推計と低位推計がある。人口が多くなる方に振れた場合が高位推計だが、
高位推計では人口増加が止まらないと予測されている。現実には地球の人口扶養力は限られるので、
世界の人口増加が止まらない状態は起こりえない。従ってこの推計には地球の人口扶養力が考慮されていないと分かる。
それでは地球の人口扶養力はどの程度あるのだろうか?
緑の革命
20世紀の半ばに始まった世界的な食糧増産を「緑の革命」と呼んでいる。20世紀の終わり頃まで食糧生産量が増え続け、
その間に世界の食料生産は2倍以上に増加した。その間の人口増加を上回っている。
だから当時は食糧供給に対する楽観論が広がった。当時も飢餓はあったが、先進国の余った食料を回せば大丈夫。
しかも年々人口増加以上に食料生産量が増えているから、それを途上国に回せば飢餓は解消する、と言うわけである。
けれどもその後、食糧増産が止まった。
それは「緑の革命」の中身を見れば当然の結果なのだが、当時の専門家たちには“食糧供給楽観論”に走った人が多い。
なぜ食糧増産が数十年も続いたのか? 20世紀半ばに、小麦や稲などの主要作物で“多収量品種”が開発された。
この品種は田畑の面積を広げなくても従来の倍以上の収穫を上げられる。
新品種の作付けは先進国の田畑で始まり、徐々に途上国にも広がった。その間、長期に亘って食糧増産が進行したのだ。
だから新品種の作付けが一巡したら食糧増産は打ち止めである。
更に「緑の革命」には困った問題が付随している。新品種は肥料と農薬を多量に投入しないと「多収量」を引き出せない。
それを前提とするまで世界人口が増えたと言うことは、人類が「肥料や農薬を手放せなくなってしまった」ことを意味する。
その肥料や農薬の供給は地下資源に頼るように、産業革命以来変化してきている。
食料が“枯渇性資源”になってしまった!
それを聞いて、「昔のように緑肥(腐葉土とか家畜糞尿など)を使う方法に戻せば、問題が解消する」と思うかも知れない。
だがそう巧くはいかない。肥料を地下資源に頼ることで、それまで肥料生産に当てていた土地まで田畑に転用したのだ。
それだけ広い土地で食糧生産すれば今の人口を養うことができる、と言う話なのである。こうした状況を考えるに
地球の人口扶養力 ≒ 現在の人口
程度がせいぜいである。肥料と農薬の地下資源依存を止めざるを得ないとしたら、実際にはもっと厳しいのかも知れない。
更にもう一段階の多収量品種を生み出すとかしない限り、国連の高位推計のように世界人口を4倍に増やすなど考え難い。
通常利用されているのは中位推計だから、それなら(少なくとも過渡期としては)地球の人口扶養力の範囲内で収まる。
国連の立場では、中位推計を辿る要因は「地球の人口扶養力の限界ではなく、家族計画が普及して」と言うことになるが、
本当にそうなのだろうか? 既に限界に近い人口であることを知ると疑念を抱いてしまう。
農耕牧畜の始まり
世界人口は今のところ中位推計から大きく外れそうな情勢ではない。のだけれども、実際に家族計画が広がっているのか?
避妊のような手段は、宗教的な理由など、地域の社会規範としばしば衝突して、地域社会に受け入れられ難い。
それに抗って家族計画の普及が進んでいる、というのは、少なくとも私の普段接するマスコミ報道ではない。
それ故、中位推計に近い人口増加にとどまっていても、内実は国連が期待したようなものではない可能性を感じる。
既に世界人口が限界に近づいていて、それが原因で世界の紛争が止まず、人口増加も抑制されている可能性はないのか?
もしそうであるなら、誰かが犠牲にならざるを得ない段階に来ている、ことを意味してしまう。
ここでたまらず「先進国の浪費している食料を途上国に回せば、十分に足りる。資源配分の問題だ」と発言する人が出てくる。
「平等に配分しようではないか」
その心に共感を覚えながらも、科学者としての目線からは見える景色は少々違う。資源枯渇時に起きるであろう事柄の実像は、
世界における紛争の多発である。つまり今の世界の状況である。
世界全体の食糧が不足したときに直面する事態は、「世界同時食糧難」かと思うかも知れないが、そんな状況は起こり得ない。
例えば農耕牧畜が始まった時の世界人口は、それが地球が人間を狩猟採集で養い得る限界を見積もると言われるが、
当時の実際の世界人口はその半分以下の段階で、個別にみると農耕牧畜に移らざるを得ない地域が存在したと見積もられる。
ここでまた多くの読者にとっては説明が必要だろう。学校で習った農耕牧畜は
計画的に食料を得る革新的技術
というものだった。それを信じていた私にとって、環境歴史学者の見解は衝撃的なものだった。論理的に彼らの見解が正しい。
狩猟採集時代から見て農耕牧畜は、誰でも簡単に気づくような食料供給方法に過ぎない。
すでにその時代には、集めて余った種を翌年のために地面に撒いてから次の宿営地に向かう知恵を持っていた。
その程度のことなら、身の回りの植物を観察していればすぐに気づきそうな知恵であるし、実際その痕跡が残っているのだ。
それをもっと組織的に行えば農耕牧畜に移行するだけのことである。
更にまた、農耕牧畜は苦労多く全然魅力的でないと言う。現在でも残っている狩猟採集民は、極寒地域のイヌイットだとか、
不利な自然環境の場所にわずかに生活しているだけだが、研究者が彼らの生活を分析してみたら、
1日3時間程度の労働で食料を得ていて、残りの時間は余暇に当てていたと言う。
農耕民族の日本人は農薬などの出現以前、年中畑の雑草取りに追われたり、休む暇はほとんどないのを当然と考えてきた。
それはもちろん農民の場合かも知れないが、人口のほとんどが農民でやっと成り立つ社会なのだから、社会全体として見ても、
誰もが全力で働く社会なのである。こうして労働時間は長くなる。
更に加えて驚いたことには、農耕牧畜では収穫も安定しなくなるのだ。狩猟採集なら一年を通じて様々な食料に依存するから、
そのすべてが不作ということはなかなか起きないのに対して、農耕牧畜になると栽培した作物が不作だとすぐに飢餓に陥る。
「計画的に食料を得る革新的技術」などと言うのは大嘘で、
食料供給が不安定になるし、重労働も必要な“苦難の道”
だった。それが環境歴史学者の農耕牧畜に対する見解である。それにも関わらず人類が農耕牧畜に進むことを選んだのは、
皆で生きていくために“苦難の道”に進むことを選んだからだと言うのである。
更に傍証もあるという。最初の栽培植物が荒れ地の作物だったのは、地域の中での弱者が農耕牧畜を始めたためだと。
狩猟採集民は小集団で季節ごとに場所を移動しながら生活する。集団が大きくなりすぎると、
必要な食料を得るための採集範囲が広くなって、宿営地との往復距離が伸びる。それを避けるために集団は小さく保つ。
さてこうして集団が分かれたとき、2つの集団が食料を得るに十分な土地がなかったなら、弱い方の集団が悪条件の土地に行く。
その土地でどうにか生きていくためには、狩猟採集の方法では無理だった。そこで食べられる植物だけを育てることにした。
そうすれば当面皆で生きていけるのだから。結果として荒れ地の作物が最初に栽培される。
けれども一度農耕牧畜の重労働を受け入れたなら、その集団は狩猟採集の集団規模の限界から解き放たれて膨張を始める。
そうして狩猟採集民との力関係を逆転したのである。
話が横道に逸れたが、次に起きるであろう資源枯渇時代にも、農耕牧畜が始まったのと同じような経過を辿ると考えるべきだ。
世界全体ではまだ足りている段階から、世界のあちらこちらでローカルな危機が訪れて、それが増えていく。
地域の人々の生活が脅かされるとき、人々は生きるために戦うことになるだろうが、
マスコミを通じて見えるであろう彼らの状況は、具体的には政情不安であったり、さらには紛争多発といった形で表面に現れる。
世界の現状は確かにそのように見える。
農耕牧畜の開始時における資源の逼迫と、今から危惧される資源枯渇が引き起こす社会状況は、確かに同一視できないが、
単純に「倍以上」という数字を当てはめれば、供給可能量が必要量の倍以上ある段階から世界の各地で小競り合いが起きる。
地球の人口扶養力が倍以上ある段階で、資源枯渇は地域紛争を引き起こし始める。
結局どっちなのか? - 死因別データ
ここまでの結論では、表面的に見えている現象だけでは判断がつかない。つまり国連の言うとおり「家族計画の普及」でも、
地球の扶養力の限界でもどちらにしても、人口増加が高位推計から中位推計まで抑制されることを説明できてしまうからだ。
更にこの点を追求しようと思ったら、もう少し統計データに当たらなければならない。
けれども少し調べてみて、すぐさま「容易ならざる困難」があることに気づく。最初は死因統計を調べれば良いと思っていた。
飢餓や戦争で亡くなる人の数が、高位推計と中位推計の差と近ければ、資源の枯渇が主因と見なせる。
けれども死因統計はそんなに都合良く分類されてはいない。この場合の死因とは病院で診断される病名なのだ。
江戸時代の人口動態を調べた速水氏の著書によると、江戸時代の中期、人口がほぼ一定に保たれた時期には、
都市部の若者の高死亡率が人口増の歯止めになっていた。彼らの直接的死因はほとんどが病気、伝染病の流行であるが、
背景には度々繰り返される飢饉があった。飢饉の時には、まず経済弱者の栄養不足、それが抵抗力を低下させて病気を誘う。
つまり死因統計の中に出てくる病気を、病気の原因毎に仕分けしなければならないことを意味する。
○○という病気の場合に、何年の統計だったら△△の出来事があったから、飢餓を原因とするのはX割程度であろう、などと
どうやったら判断がつくだろうか?
資源の枯渇は本当のところ食料だけではない。例えば前回考えたエネルギーも、煮炊きに必要なエネルギーもないとしたら?
北国ではエネルギー供給が滞れば、死に直結するような環境に暮らす人も大勢いる。水の供給もしかり。
だから食糧資源だけ考えていれば良いというものでもない。こうした飢餓以外の資源に関する死因統計は益々見当たらない。
更に紛争が勃発した地域からは、そもそも死者数の統計さえ得られなくなっている。過去の戦争の死者数なら推計があるが、
現在進行形の紛争に関して、年間死者数を見積もるのは無理がある。
結局ここで頓挫している。仕方なく国連食糧農業機構の「飢餓による死者数」とされる数字「1日に約4万人餓死している」を、
そのまま1年間に広げたらどうなるか計算してみた。年間に直すと(厳密にはべき乗しなければならないが)ほぼ365倍で、
その結果は高位推計と中位推計の差の半分弱だった。小さくはないが、それ以外の部分の方が大きいと言うことになる。
結局問題は、直接餓死の形に表れない、病死者に含まれる割合、更には食料以外の資源枯渇を主原因とする死者の数だ。
それらを勘定に入れたら、この何倍かになってしまって、高位推計と中位推計の差の過半を占めたとしても不思議でない。
何と言っても速水氏によれば間接的な死者の方が多いのだから。
「1日4万人」の数字にも間接的餓死者を勘定に入れる操作が入っているだろうと思うのだが、それがどういう範囲なのか、
とりわけ今の私の目的にかなっているのか、調べねばならないが、それが分かったとて、“焼け石に水”の感はぬぐえない。
相変わらず不確かさの大部分が残っているのだから。
結局どっちなのか? - バイオマスの賦存量
それでは別の角度から考えて見よう。前回の話でバイオマスの賦存量も考えた。これはそのまま食糧供給量の上限になる。
人口120億人が一日に2000kcal食べるとすると、バイオマスの賦存量はその100倍程度である。
この数字を授業で紹介すると、「充分あるんだ」と安心する学生と、「その程度しかないのか」と不安を口にする学生がいる。
バイオマスの賦存量には全て含まれる。例えば海で植物プランクトンが吸収して光合成で固定した太陽光のエネルギーは、
そのまま人間が食べることはできないので、それを動物プランクトンが食べたり、更に魚が食べたりして、食物連鎖を経て
人間の食糧に変化する。その間に当然エネルギーは目減りする。
生態学での大雑把な数字では、生物生産量が補食一段階毎に10分の1になる。例えばマグロは多くの民族が食べる魚だが、
そこまでに補食3段階くらい経てしまうから、エネルギーの供給量としては1/1000に目減りして、足りないことになる。
海産資源は概して(海草を除いて)高次捕食者を人間が食べるため、食糧供給源としては頼りにならない。
同様の試算結果は漁業の面からも得られていて、持続可能な漁業で賄える食糧は、人間の必要量の1/10程度でしかない。
これでは計算が合わないので、陸産の食糧資源に目を移せば、穀物や野菜・果物など、植物を直接人間が食べるものもある。
そうすれば「補食一段階で生物生産量1/10」の係数が掛からなくなるから、供給量はそれなりにある。
とは言っても、バイオマス賦存量の中に占める陸上植物の比率があまり小さいと、やはり供給量は小さくなってしまう。
そう思って周囲の専門家に聞いてみたら、1/2程度、1/10程度、1/100程度、の3通りも出てきて、まるで一致しない。
多分最後の1/100程度は間違っているだろう。そうだとしたら現在得られている食糧の供給量と同程度になってしまうから。
仮に1/10程度だとしてもかなり無理がある。その場合、人間は現在その約1/10を食糧として得ていなければならないが、
バイオマス賦存量の内訳を考えると大変厳しい。
陸地でも森林が吸収したエネルギーは、ほとんど人間の口に入らない。更に農業用地の中でも牧草地の割合が断然大きく、
人間が直接食べる作物を育てることができているのは、全体の2-3割に過ぎない(FAOの資料で)。
栄養バランスの問題から人間は野菜や果物も食べる必要があるが、エネルギーベースで見るとそれらは牧草地と大差ない。
穀物を育てた場合でも植物自身が使うエネルギーを引いて、茎や根などの非可食部になる分のエネルギーを除いて、
と言う具合にあれこれ引き去っていくと、すぐに1/10を割り込んでしまうのだ。だから一番緩い数字の1/2を採用してみれば、
それなら“まあまあ現実的と思える程度の内訳”を描くことができる。
こんな調子なので、植物が光合成で固定できる太陽エネルギーの量自体が与える上限が、今の世界人口の少し上にある。
人口の天井は我々の頭のすぐ上に迫っている。
「不都合な真実」
飢餓の問題は食糧供給の問題である。そして人口の問題でもある。1人当たりの食糧が充足していない状況で飢餓が起きる。
食糧以外にも人間が生きていく上で死活的に重要な資源が幾つかあり、人口が増えればそれらが不足する可能性を孕む。
今回の議論の中で出てきた
「先進国の浪費している食料を途上国に回せば、十分に足りる。資源配分の問題だ」
と言う言葉が出てくる背景に、反射的に「不都合な真実」から目を背けようとする、“良心的知識人”の心情を感じてしまう。
確かに今の状況では配分を調整すれば全ての人に充分な食糧が行き渡り、飢餓は世界から撲滅できる。
けれども人口が増え続けているのも事実であり、これから先、幾らでも増えて大丈夫である筈がない。
上で議論したのは「人口増加が鈍化する原因は、家族計画の普及なのか、地球の扶養力の限界なのか」という疑問だった。
その答は判然としなかったが、もし後者だとしたら?
我々全員が生きていくことはできない。
だからと言って、死ぬべき人を選別することなど考えられない。そこで今から準備して出生数を減らすことにしてみる。
我々全員が好きに子どもを作ってはいけない。
誰が出産して良いのか決めることになる。誰かを名指しするのは問題が大きいとしたら、中国の“一人っ子政策”のように、
経済的インセンティブによって、子どもを多く産まないように誘導する以外にないが、それにも問題がある。
親にとって経済的条件は自己責任の部分があるが、第二子にとっては「生まれてきたのは自分の責任でないのに...」。
良識ある人ならば、こうした議論は避けたいと思う。だから議論しないで済む要素を探す。そしてそれはすぐに見つかる。
現状に限れば、食糧の総量は足りている。
昔どこかで読んだのだが、ある経済学者が「今の人口増加を1万年続けても大丈夫」と言ったんだとか。そこで計算して見た。
ここ数十年の人口増加率は50年で2倍程度だ。100年で4倍、1万年では1.6×1060倍だ。
仮に世界人口50億人でスタートしたら1万年後には、8×1069人だ。体重50kgとして全人口の総体重は4×1071kgだ。
これは凄い数字だ。地球の質量など論外で、太陽の質量と比べても、銀河系全体の質量と比べても、まだ桁違いに大きい。
そんなに多くの人間が地球にいたら、人間が何層にも重なって、地球と言うより“人間の巨大な塊”になる。
その人間の塊が太陽も太陽系も飲み込んで、宇宙でも類を見ない巨大な星になる、では済まなくて、ブラックホールになる。
巨大な自己重力で押しつぶされてブラックホールになってしまうのだ。
そんなに多くの人間の食糧を地球が供給するなんて、馬鹿馬鹿しくてお話にならない。今足りていても将来は別物なのだ。
けれども件の経済学者の発言の背景にある心には、真剣に向きあった方が良い。
もし人口増加を抑制しなければならないとしたら、少なくとも産児制限をしなければならない。
それは既に見た通り、人権だとか個人の自由だとか、現代社会を構成している基本的価値観に修正を迫る“大事件”なのだ。
だから専門家は「人口が増えても大丈夫」である、理由を探したいのだ。切実に。
更に経済学には別の動機もあるかも知れない。実のところ資本主義経済は人口減少に巧く対応できるのか、判然としない。
今まで人口が増える状況では“成功の実績”がある。だが人口減少社会では試して来ていない。
人口だけではない。今の資本主義経済では、経済規模が大きくなる方向では人々に恩恵をもたらすが、
経済が縮小したり、経済成長が停滞するだけでも、社会に様々な歪みを生じる。そう、今の世界経済がまさにその状態だ。
かと言って今の経済学を見渡しても、資本主義に代わる良い根本経済原理が見つかっているわけでもない。
そう言う状況で、人口増加や経済拡大を止めなければならないとしたら、それは「世界の人々にとっての不幸」を意味する。
経済学者の心は「現状の拡大路線を続けて大丈夫」を探し求める。人々の幸福のために。
そこで国連は言う。「経済はともかく、人口増加は自然に止まる。家族計画の普及によって」と。そこにも心があったのだ。
世界が不幸に導かれる未来は描きたくない。
だから逆に私は不安なのだ。真実は違うのではないかと。そこでいろいろ調べてみたが、確実な結論が出たわけではない。
ただ「真実はもっと厳しい」と考えた方が良さそうな状況証拠はいくつも見つかった。

(写真について) 大学構内に山羊がいて驚いた。どうも中学校の技術科で動物の飼育が内容に入っているためだと言う。
山羊は荒れ地での牧畜に向いていて、よく利用されているし、最近の日本では除草のために導入されて成功している。
けれども一方でいろいろと問題も多い動物だ。草の地上部を食べ尽くしたら、根まで掘り出して食べてしまう。
だからこそ荒れ地に強いわけだが、根まで食べ尽くしてしまうことで植物被覆の回復を妨げて、砂漠化を進行させてしまう。
人類の食糧供給に貢献する面と、植生を壊滅させる危険性と、両面を併せ持つ鋭利な剣のようだ。


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