「再生可能エネルギー」の言葉、 
 「持続性エネルギー」と言い換えた方が...    2015.7.1  
 

10年以上前のことになるが、当時マスコミが好んで使っていた言葉に、「リサイクル可能なエネルギー」と言うのがあった。
この言葉で言い表しているのは、太陽光とか風力とか、資源の枯渇がないエネルギーのことである。
ところが授業準備をしていて、はたと困ってしまった。
物理学の基本的法則であるエントロピー増大則による制約から、エネルギー資源には再利用が不可能という特質が生まれる。
それを教えようと思ったら、困った言葉が世間に蔓延していることに気づいたのだった。
実はここに文章を書く際にも、「再生可能エネルギー」という言葉が一般化している現状に、微妙な難しさを感じることがある。
今後のためもあるので、何故これらの言葉に問題を感じるのか、少し丁寧に説明しよう。
リサイクルなんてしていない
それでは太陽光発電の場合、それによって作り出された電気エネルギーならば、リサイクルしたことになっているのだろうか?
リサイクルであれば使用後のエネルギーを再利用していなければならない。
けれども実際には使用後のエネルギーではなく、新たにまた太陽光の光のエネルギーが供給されてきて、それを利用している。
「石油などの化石燃料と同じではないか!
化石燃料も新たに燃料を掘ってきて燃やしているのだから、太陽光が新たな光エネルギーを利用するのなら、どこも違わない。
そもそも同じ電気エネルギーなのに、電気エネルギーになる前の情報が残っているとしたら、それは奇妙な話である。
太陽光から作った電気エネルギーはリサイクルできて、化石燃料からだとできない、とするなら、
その電気エネルギーを使う時にも違いがあって良い。「本製品には化石燃料由来の電気エネルギーだけを使用して下さい」とか。
逆に「化石燃料由来の電気エネルギーは避けて下さい。避けないと故障の原因になります」なんて...。
元来電気エネルギーはどう言う発電方法であっても同じ性質を持っている。これは真実だし、暗黙の前提だと言って良いだろう。
その前提にたって、電力供給量と需要の一致など、電力の問題を我々は議論している。もし仮に性質が違うなら、
「○○の電気エネルギーは××供給する必要があり、△△の電気エネルギーは...」と、各々分けて議論していなければおかしい。
けれども実際には、様々な方法で発電した電気エネルギーは一緒にして供給され、使用時には区別できない状態で我々に届く。
電気エネルギーの伝送用電線を分けないのは、それが同じ性質を持ち、元より区別できないからなのである。
言及した方が良いかも知れない。グリーン電力のような制度は、電気エネルギーを発電方法で区別できているように聞こえるが、
実際には送電網に流した電気エネルギーは、他から流れ込む電気エネルギーと混ざって区別できない。
そこで量的な対応を図るのだ。発電して送電網に流した電気エネルギーの量と、送電網から取り入れて消費する量を一致させる。
これがグリーン電力の実際の姿だ。これで電気料金の計算には不都合がないと言う仕掛けだ。
結局、太陽光発電が化石燃料と違うのは、リサイクルできるかどうかではなくて、地球に常時供給されているかどうかである。
エネルギーとしてはどちらも同じ性質を持つのだけれども、太陽光の光エネルギーは化石燃料と違い、
いつも供給が続いているので、これを利用することにすれば、枯渇する心配がない。その結果、資源問題を解決することになる。
リサイクルとは別の方法で資源問題を解決している。
この違いに気づかず「リサイクル可能なエネルギー」と表現してしまったから、おかしなことになったのである。
「再生可能エネルギー」の表現ならどうか?
最近は当時と状況が変化している。2年ほど前にある団体の方が、「我々はエネルギーのリサイクルに取り組んでいます」と。
これが私にとって一番新しく、結構久しぶりに「エネルギーのリサイクル」と言う発想に接した出来事だった。
代わりに良く聞くのは「再生可能エネルギー」という言葉で、現在ではだいたいのところ、この言葉に置き換わっている。
多分「リサイクル可能なエネルギー」という表現がおかしいことに気づいた人が他にもいて、それで使われなくなったのだろう。
それでは「再生可能エネルギー」なら問題ないのだろうか?
結論から言うと微妙である。話の流れから「再生=リサイクル」と感じるかも知れないが、「再生」の意味は元来もう少し広い。
「再生紙」とはリサイクルペーパーのことで、リサイクルと同じ意味だが、
「森が再生する」と表現した場合、森を構成していた炭素だとかの原子が再び戻って来て森に戻る必要はない。
別の原子が原料になっていても、質的に同じ森が再びその場所にできあがれば良く、それを「森が再生する」と表現している。
もし「再生可能エネルギー」の「再生」が後者の意味なら大丈夫だ。
日々新たな光エネルギーが届いて前日と同じ性質の電気エネルギーが再現するわけで、まさに「森の再生」と同じことになる。
一方、前者の意味なら「再生」と言い換えても問題は解決していないことになる。
そこで学生に聞いてみた。やはり「再生可能エネルギー」の言葉でも、「再生紙」の「再生」を先に思い浮かべるからダメだそうだ。
話の流れから言ってそうなってしまうのは必然かも知れない。だとすれば「再生可能エネルギー」の語も推奨できない。
学生は時々私の授業を聞いて驚く。「エネルギーって再利用できないんですか? 授業を受けていなければ勘違いしたままでした」と。
こうした勘違いの原因には、「再生可能エネルギー」という言葉にも幾ばくかの責任がある模様なのだ。
「持続性エネルギー」又は「持続可能なエネルギー」
そこでお勧めしたいのが「持続性エネルギー」、あるいは「持続可能(な)エネルギー」という表現である。これなら問題が生じない。
多数派ではないが私以外にも「持続」の言葉を当てている人がいる。
それでは「持続性エネルギー」と「持続可能(な)エネルギー」のどちらが良いのか? そこは一長一短というのが結論だ。
まず対義語としては「枯渇性エネルギー」の言葉が確立している。それとの対応関係では「持続性エネルギー」が優れる。
一方、英語では sustainable energy だから、直訳すれば「持続可能なエネルギー」となる。
この場合どちらも甲乙付けがたいと思うが、文字数の少なさから私は「持続性エネルギー」の言葉を使うことが多いのが現状だ。
余談だが、renewable energy が「再生可能エネルギー」の英語。「リサイクル可能なエネルギー」の英語は知らない。
同じように「エネルギー循環」の表現にも問題があることに気づく。専門家はそういう時「エネルギーフロー」と言う語を使っている。
「フロー」は flow、通常「流れ」と訳しているが、「エネルギー流れ」では日本語として変だ。
だからそのままカタカナで「エネルギーフロー」と言っているのだが、微妙に専門用語臭が感じられてこのまま推奨して良いのか?
やはり「フロー」の部分は漢字2文字の言葉に置き換えた方が良いような気がしている。
「漢字にできないかなあ」と先日の授業で話したら、1人の学生から「エネルギー流路」というのはどうだろう、と提案があった。
flow は必ずしも「路」に限定しない意味合いだが、専門家が「エネルギーフロー」の言葉を使う場面の多くは確かに「路」を考える。
日本語としてもまずまず悪くない。有力候補かも知れない。
以上まとめてみると以下のような具合。
 × … リサイクル可能なエネルギー
 △ … 再生可能エネルギー
 ○ … 持続性(持続可能な)エネルギー
 × … エネルギー循環
 ○ … エネルギーフロー(流路?)
ところで「再生可能エネルギー」という言葉は、我が国の法律にも使われている。そのため最終的には法律まで書き直すことになる。
この言葉を修正するというのは、実は結構気の長い作業なのである。まずは我々から始めようではないか。

(補足) エントロピー増大則について
エントロピー増大則の内容は「閉じた系のエントロピーは減らない」とまとめられる。しかし「エントロピーって何?」という人が多かろう。
意味合い的には「乱雑さ度合」なのだが、例えば熱の流れは、高温から低温に流れて、逆方向には流れない。
また香水の瓶を開けたりして、匂いが空気中に広がる現象も、逆に流れる、つまり瓶の所に匂いが集結することはない。
これらに共通するのは、熱でも匂い物質でも、広がって混ざり均一化する方向には自然と進むが、逆に分離して集結はしない点だ。
そのような現象を過去の科学者が調べて、エントロピー(乱雑さ)の数字一つの大小関係にまとめられることに気づいた。
計算して見ると、熱が高温から低温に移動したときは、高温部のエントロピーは減るのだが、低温部のエントロピーが増えて、
差し引きすると全体としてはエントロピーが増加している。
ここで重要なのは、こうして一旦エントロピーが増えると、元に戻そうとしても、もはや元には戻らないのだ。
どうしても元に戻したければ、熱を奪ってやることによって、増えてしまったエントロピーを外界に捨てる以外に方法はないのであるが、
外界に捨てたエントロピーも含めた、エントロピーの全体量は減っておらず、依然として増えたままだ。
エントロピー(=余計なもの)が増える一方で、それはどこかに置いておく以外にない。
どこか「ゴミ処分場問題」みたいな感じの法則である。
それでは地球の場合、実際にどこにエントロピーを捨てているのかというと、宇宙である。赤外線として熱エネルギーが宇宙に出て行く。
こうして増えたエントロピーを宇宙に捨てることによって、地球のエントロピーは一定に保たれている。
宇宙は充分広いから「ゴミ問題解決」には違いないのだけれど、これによってエネルギー資源への制約ができたのに気づくだろうか?
電気エネルギーだとか、運動エネルギーだとか、そう言うエネルギーも使った後は熱になって空気中に広がっていく。
例えば車を動かしている時の運動エネルギーを考えよう。ブレーキを掛ければ摩擦熱、つまり熱エネルギーになって、
ブレーキ板よりも温度の低い周囲の空気にその熱を発散させることになる。そして最後は更に温度の低い宇宙空間へと。
そうやって広がって均一化してしまった熱エネルギーは、元々のエネルギーと違ってエントロピーが大きくなっているので、
もし仮に再び元の運動エネルギーに変換できたとしたら、エントロピーが減少してしまい、エントロピー増大則に反することになるので、
それはできない筈である。このようにエントロピー増大則は、エネルギーの再利用ができないことを教えてくれる。

言葉狩り? 個人的には所謂「言葉狩り」には賛成できない場合も少なくないのだが、「リサイクル可能なエネルギー」は避けたい。
「再生可能エネルギー」の表現も止めた方が良いと考えている。何が違うのか説明しよう。
一般的に言葉は何かの概念を表現する。その言葉を止めても概念は残り、状況は改善しないか、むしろ混乱を招くような場合がある。
そういう時には、その言葉は残すべきなのだ。
稀な状況を言っていると思うかも知れないが、実際には結構多い。以前屠殺について触れた。この「屠殺」という言葉はその一例だ。
動物を食肉に加工する時には最初に殺さなければならない。その作業を「屠殺」と言うのだが、この言葉を避けようとする動きがある。
確かに屠殺には苦痛を伴う。その苦痛を思い起こす言葉である。人に苦痛を与える言葉を避けよう、と言うのも理解できる。
けれども我々人間が生きていく上で屠殺という作業は宿命的に背負わされているもので、言葉をなくしたからと言って逃れられない。
そういう時にこの言葉をなくしてしまうと、現実には日々続けざるを得ない屠殺という行為を隠したことにしかならず、
現実にはその苦痛を伴う仕事に従事する人達だけにその苦痛を押しつけてしまい、私達の大多数がその苦痛を顧みないことに繋がる。
屠殺を忌み嫌うこと、これはまさに江戸時代に起きた屠殺従事者への差別と同じ発想である。
苦痛を思い起こす言葉を避けたいのは分かるが、言葉よりも苦痛そのものの方が本質的なのであって、苦痛自体が存在する限りは、
それを表す言葉は残しておかなければならない。言葉がなければ隠蔽され、今の場合は古い差別の復活にさえ繋がる。
そこで隠蔽しないためには、それを言い表す別の新たな言葉をつくり出さなければならないことになる。
けれどもその新たな言葉も、当然ながら苦痛を思い起こすわけだから、避けなければならないことになって、...、堂々巡りが終わらない。
こう言う場合の言葉狩りには賛成しない。この場合はむしろ憤りすら覚えている。
それに対して上記で私が提案するのは、誤解を避けると言う観点だった。これは言葉で表現される事柄を減らすようなものではない。
だから事柄を隠蔽することはなく、むしろ事柄にまっすぐ向きあうための言い換えである。
「再生可能エネルギー」と言う言葉が誤解を与えて、実際エネルギーへの間違った認識を誘発している、この状況を改善するために、
適切な代案、つまり「持続性(持続可能な)エネルギー」を提案している。
元来言葉には人によって様々な感じ方があるわけで、皆がそれぞれに言い始めたら収拾が付かなくなる。それを全て避けていたら、
表現できない事柄が増えていくことになる。「屠殺」の言葉が表現するのもそう言う概念の一つである。
言葉によって表現される事柄には、マイナスの内容が含まれることは当然で、それを言葉にすることで認識できると言う効果もある。
事柄そのものが存在していて、他に適当な言葉がない時には、その言葉は残すべきである。
事実にちゃんと向きあうこと、更にその概念を今以上に的確に表す言葉が提案されること、これらがその言葉を廃止し得る条件を成す。
もちろん概念自体を廃止して良い場合もある。例えば侮辱目的だけに使うような言葉は、概念自体が不必要だ。
そう言う観点から悩ましい例を挙げて今日の話を終わりにしよう。よく使われる言葉、「夫」と「主人」、「妻」と「家内」についてである。
「主人」に代えて「夫」、「家内」に代えて「妻」と言い換える。
その趣旨は、夫と妻に主従関係はない、妻が常に家にいるわけではない、そう言う趣旨だった。それ自体は理解できる。
けれどもそのような言い換えが始まった頃、まだ学生だった私は「代用できる言葉になっていないのではないか」と疑念を抱いていた。
「主人」とか「家内」には謙譲語としての役割があったのに、「夫」や「妻」にはそう言った意味が込められない。
相手の配偶者を言う場合、今度は「旦那さん(ご主人)」とか「奥さん」などと表現する。尊敬語と謙譲語の組合せが元々はあった。
だから自分の配偶者を「夫」とか「妻」と言うと威張っているように聞こえ、逆に相手の配偶者を「夫」とか「妻」と言った場合には、
他人の家に土足で踏み込むような不快感を与える。そう言う問題を感じていたのである。
そこで考えて見た。夫婦に上下関係はない、と言うことは、夫婦間のことであるが、謙譲語を使うのは夫婦から見ての他人に対してだ。
礼儀作法として、夫婦間の関係よりも他人との関係の方が優先されるのではないだろうか?
「主人」や「家内」と言う言葉が持つ意味と、真の夫婦関係の間の齟齬は、夫婦間で話しておけば済むが、他人と突っ込んだ話は難しい。
特別に親しい友人を除いてほぼ不可能。この場合は敬語の方を優先すべき、との結論に至った。
元々「夫」や「妻」という言葉にも重要な役割があった。尊敬語でも謙譲語でもなく、中立的な言葉が必要で、それがこれらの言葉だった。
だから言い換えるためには「夫」や「妻」ではなく、新しい言葉を発明しなければならないのに、安直に既存の言葉を充ててしまった。
それが原因で問題が発生しているのではないだろうか?
では謙譲語の「愚妻」というのはどうだろうか? それに対応して「愚夫」と言うのは? 夫婦に上下関係がない点では合格だが、
状況に依存して使えない場合も多い。少々謙りが強すぎてふざけた印象になる危険もある。やはり既存の言葉は難しい。
そこでどうしたら良いのか、具体的なアイデアがあるわけではないのだけれど、「主人」とか「家内」の語に代わる新たな謙譲語が必要、
尊敬語についても同様、ここまでは間違いないのではなかろうか? 「夫」と「妻」の流用では解決していない。
思うに「愚夫・愚妻」の「愚」を何か適当な漢字に置き換えることで良い造語ができそうな気がする。しかし具体的な造語を提案するには、
充分な日本語発想力が私に備わっていないようなのだ。

(写真について) 今年の合宿研修は雲仙方面にした。数年前にやはり合宿研修の下見のために雲仙普賢岳に登った時に撮影した、
ヒカゲツツジの花である。しかも、山頂付近には「這日陰」と呼ばれる、枝が細かく分岐して低く育つ変種が咲いていた。
園芸店では特に「屋久島這日陰」が人気だ。園芸店でしか見なかった花が咲いているのを見て、それはそれは驚喜したのだった。
以前も記したように石楠花には黄色や青系統の花まである。
ヒカゲツツジも、「躑躅」と名前が付けられてはいるけれど、分類的にはむしろ石楠花の仲間に属する。
黄色い花が咲く珍しい石楠花だ。石楠花としては花も葉も小さく、花が密集して手鞠のように咲くこともない。石楠花らしくない姿なので、
躑躅と呼ばれているわけだ。山で出会ってひときわ嬉しい花の一つだ。


                                 研究室トップ