原子力発電の将来性 
   - ウラン資源量と打開策 -   2013.10.10  
  

前々から書くつもりでいたが、先延ばしになっていた話題だ。原子力発電の将来性について私見を記しておきたい。
これから述べる話の核燃料サイクルの部分は、拙著にもう少し詳しく解説している。
現在の原子力発電の燃料、つまりウラン-235の埋蔵量はそんなに多くはない。この点には先日も触れた
可採年数では石油を上回る程度の数字が公表されているけれども、毎年の消費量が石油の数分の一しかない。
ざっくり言えば「今のペースで使うなら石油より長持ちします」と言う意味である。
石油の代替エネルギーとして使うと仮定して、石油と同じペースで使ったら何年に換算されるか、計算して見たら、
石油の可採年数の1/3程度になった。資源量としては石油よりも少ないと言う事なのだ。
二酸化炭素の発生が少ないとか、それは原子力の優位点の1つかも知れないけれど、化石燃料を肩代わりするには、
まず先に資源量の問題を解決しなければならない。
それを打開するには2つの方向性がある。
1. 採掘技術の進歩によって、これまで埋蔵量と見なせなかったものを採掘できるようにする。
2. 発電方法を変更してウラン-235以外の燃料を利用できるようにする。
ひとつ目の話はちゃんと調べていないが、海水中に含まれるウランを濃縮しようと試みている研究グループがある。
この試みはひとつ目の方向に沿ったものである。
それを聞いて驚いて、エントロピー計算だけはしてみたが、濃縮のための最低必要エネルギーは十分に小さかった。
それだけ海水中のウラン濃度が高い、と言う意味にもなるから、海水浴とか何だか微妙に気持ち悪い話ではある。
だから驚いたのだが、さすがにエントロピー計算みたいな初歩的条件を破ることはなかった。
とにかくエントロピー計算だけで「無駄な努力」と断じることはできないようだ。もっと細かい部分を見る必要がある。
現実味がどの程度あるのか、いつ頃実用化できるのか、すぐには判断できないと言う事だ。
核燃料サイクル
ふたつ目の話を掘り下げて見よう。ウラン-235以外に燃料として使えそうなのは、プルトニウム-239と重水素である。
プルトニウムを使うのが核燃料サイクルで、その本命は高速増殖炉、つまり「もんじゅ」で目指しているものだ。
ウラン-235の100倍以上あるウラン-238が中性子を吸収してプルトニウム-239が生じる。
もしプロトニウム-239の核分裂で発生する3つほどの中性子の内で、1つがウラン-238に吸収されたとする。
そうするとプルトニウムが燃焼すると同時に新しいプルトニウムが生成されて、
燃料が尽きるのはウラン-238が枯渇するとき。だからウラン-235を使う今の原子炉に比べて、100倍の資源量になる。
と言うのは乱暴過ぎる論理だが、単純にはこんな感じの技術だ。
けれどもなかなか巧くいかないのはご存じの通り、当然プルトニウムは連鎖反応しなければならないわけだから、
残る中性子の内の1つはまだ核分裂していない残りのプルトニウムに吸収されなければならない。
同時にウラン-238に吸収されてプルトニウムを作り、燃焼して減ったプルトニウムを補う必要があると言う話だったから、
結局中性子が3つ発生する内の2つを使うことになる。
ウラン-238からプルトニウムを作るときは、中性子は減速しない方が都合が良い。そのため水を使うことができない。
普通の原子炉では水が核燃料間の隙間を通って、核燃料が発生する熱を奪い、発電のために利用するわけだが、
中性子が水中に出て水中を通過する際にも水は中性子からエネルギーを貰い、中性子は減速する。
この減速を避けたい。従って水を使えないし、密集した燃料の発熱を効率よく熱伝導だけで奪う必要がある。
そこで金属ナトリウムを使うが、配管から漏れてコンクリートと化学反応したのが「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故だ。
ナトリウムは水と激しく反応する。コンクリート中の水とでも同様。だから扱いにくい。
ナトリウム以外にも熱伝導の良い物質が幾つか試されている。しかしそれにも別の問題があって、なかなか巧くいかない。
大変苦労しているが、世界中どこでも実用レベルには達していない。
(( プルサーマル ))
核燃料サイクルの確立に至る中間点としてプルサーマルが位置づけられよう。普通の原子炉でプルトニウム-239を
ウラン-235に混ぜて燃やす。けれども燃焼して減ったプルトニウムを補充する所までは行かない。
普通の原子炉は当然水を使っているわけだから、プルトニウムを燃やすことは出来てもウラン-238には吸収されにくい。
だから燃焼して減ったプルトニウムを補充することが出来ない、と言う訳だ。
この程度までなら今の技術でも実行できるのだが、本当の目標である核燃料サイクルを確立するにはこれでは及ばない。
このプルサーマルを福島第一原子力発電所の3号機はやっていたし、玄海原発でもやっていた。
核融合
では2番目の重水素はと言うと、核燃料サイクルよりもっと基礎的研究段階にある。ウランやプルトニウムとは逆に、
非常に小さな原子核を核融合させてエネルギーを得ようと言う技術だ。
原子核は中間サイズの時に一番エネルギーを放出した状態になる。そこで大きすぎる原子核を分裂させてエネルギーを
得るのが核分裂で、小さすぎるのをくっつけてエネルギーを得るのが核融合、と言うことになる。
太陽の中で起きている核反応(の一部分)を地上で実現しよう、と言う意味だから、太陽と同じ高温高密度を実現する。
実際には太陽よりも高温高密度にしなければならないが、それは太陽に比べて桁違いに小さい原子炉の中の事だから。
何十年も研究を続けているが、まだその段階から抜け出せずにいる。
私は研究者としては核燃料サイクルも核融合炉も面白いと思う。「ウラン-235の100倍もの資源量」 「地上に太陽を」
確かに夢を感じるし、真理の追究という意味では原子核反応の諸相を解明することも必要だろう。
もし核融合炉が実現したならば、太陽内部に関する私達の研究手段が格段に広がって、一気に解明が進むかも知れない。
けれども研究のロマンを感じると言うことが、逆説的に実用性の乏しさを物語る。
太陽光や風力と比べて
核燃料サイクルも核融合炉もまだ研究段階なのであって、実用段階ではない。それに比べて太陽光発電はどうだろうか?
実用段階に入って久しく、今の問題は発電単価である。それも「太陽光発電は石油火力発電と同程度に高い」というレベル。
高速増殖炉が技術的ブレイクスルーを見つけ出して実用段階の技術になったとする。
そうすれば太陽光発電と同じ土俵で、発電単価を比べることができる。今でも比較したりするが、両者は土俵が違うのだ。
研究開発段階の核燃料サイクルや核融合炉の発電単価を計算するには、この先の改良部分などは推定するしかない。
不確定要素の推定は、適当に費用を“ドカン”と計上しておくと言うよりは、「分からないものは勘定に入れない」のが基本だ。
そうでなければ何を推定しているのか分からなくなってしまう。
だからどうしても発電単価は、研究開発段階の発電方法に対して甘くなってしまう。そう言う構造的問題が潜んでいるのだ。
従って土俵の違う発電単価を比較する議論は私はあまり信用していない。
そこで目を向けるのは「土俵が違うこと」それ自体である。発電方法の優劣に関する比較を短距離走に喩えると、
既に出場してレースに参加しているのが太陽光発電であるが、走る速さはあまり速くはない。
風力は出場しているだけでなく十分速く走るので、他の主要な発電方法と良い勝負を繰り広げている。
それらと比べて核燃料サイクルはどうか? まだ出場資格を得るために努力している段階である。走力以前の問題なのだ。
核融合炉はもっと出遅れている。
もし太陽光や風力の資源量が有限で、ウラン-238や重水素の資源量の方が桁違いに大きければ、この先の話は違ってくる。
その場合には核燃料サイクルや核融合炉に本気で取り組めばいいだろう。いずれ必ず日の目を見るのだから。
ところが太陽光や風力がレースに勝ってしまうようになったら、彼らが脱落する時代は訪れない。資源の枯渇がないから。
と言う事は今のうちに研究開発段階を終えてレースに参加した上で、太陽光や風力に圧勝して見せなければならない。
確かに現状の原子力はレースに参加している。けれども先が見えて来ている。そこで「どういう方向に展開したらいいのか?
候補はあるけれど思うように捗らず、研究開発段階で足踏みしている。」 焦っているところに降って湧いた原発事故だった。
原子力の前途には、事故以前から暗雲が垂れ込めていた。

(写真について) 夕陽で有名な棚田が玄海原子力発電所の近くにある。この棚田が一番映える季節は春の田植え時期だ。
水を張った棚田に夕陽が反射するのが美しい。そこで頑張って撮影しに行くと、ご同輩が大勢カメラを構えていた。
春という季節には難しい問題があることに気がついた。春霞に霞んで夕陽の光が散乱されてしまうのだ。
一年に数日のシャッターチャンスの季節に、珍しく海の向こうまで晴れ上がっていれば、観光ポスターのような写真が撮れる。
上の写真は二度目に行ったときの写真。やはりこの夕陽は絶品だ。そろそろ蛙の合唱が始まる夕暮れ時の空気感も漂う。
玄海原発から3kmほどしかない。「玄海原発が福島クラスの事故を起こしたら、この棚田も作付け禁止になってしまうだろう。」
原発事故は何が何でも避けたいと感じた。


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