戦争が近づいているような気がする   2017.3.19 
  

先般の北朝鮮によるミサイル発射は、在日米軍を攻撃する部隊によるものだと言う。予想はしていたが落胆させられる。
アメリカをターゲットにしたミサイルが日本の国土に飛んで来て着弾する、と言っているのだから。
エネルギー供給の話の導入で中国との関係について書いたが、中国との関係はどのように考えたら良いだろうか?
戦争はしたくない。大多数の人はそれに同意だと思う。ごく一部には戦争が始まると儲かる人もいようが、
それだからと言って、その人が必ず戦争を望むかと言えば、そうではないはずだ。
現在の国際情勢を見渡して、今我々が一番心配しなければいけないのは、やはり中国と戦火を交えるような事態だろう。
その辺の話をここで改めて記そうと思う。
防衛省の研究公募
旬の話題を紹介しよう。大学などを対象にした防衛省の予算が創設された。それに応募するべきかどうか、と言う話だ。
その予算を貰うと軍事研究に従事する義務を生じるのではないか? 現在進行形の議論だ。
正式名は「安全保障技術...」。防衛省は「軍事」の言葉は使わないが、もちろん言葉よりも中身に関心が寄せられている。
「安全保障」と「軍事」の違いは? 検討しても所詮は言葉の定義に帰着するだけだ。最近もあった話同様、不毛な議論だ。
防衛大臣の「法的な意味での戦闘行為ではない」との説明。「定義でなく実質で法解釈を」と言いたい。
さて軍事機密が関係して研究成果の公表には制限がかかると言う。そんな制限がかかるからにはやはり軍事研究か?
因みに研究者は研究成果の公表ができないと、成果が上がっていないのと同じことになってしまうから、大変気になる。
けれどもその辺を書いている文面を見ても、実際のところはよく分からない。
研究者にとって良い方に解釈したら、制限はほとんどないことになるけれど、おそらくそれでは防衛省が困る筈だから、
そこまで緩くはないだろう。既に今年予算を貰っている研究者に聞けば良さそうだが、何を制限されたか言えないので、
やっぱり分からないと言うことになってしまう。
一方日本学術会議は「軍事研究を行わない」との声明を出している。このような予算を得て研究しても良いのだろうか?
人文から理工系までの学問を網羅する日本学術会議は、日本の研究者全体を代表するような組織である。
そこがこう言う声明を出しているのだから、誰もこの予算には応募できない、と言うことになるのではないだろうか?
科学者のこのような宣言は世界的に珍しく、今回の件で日本の研究者は注目されることになっている。
「学界全体で軍事研究を拒否してきたとは、たいしたものだ」 (賞賛)
しかし当事者の日本学術会議はいま大変なことになっている。自らの意志を貫くには政府に反旗を翻さねばならない。
今まではそんな予算はなかった。問題が急浮上したのは、予算が創設されたからに他ならない。
そこで会議を重ねて議論しているわけだが、既に応募して予算を貰っている大学もあるし...。
既に予算を得た大学のトップが現在の日本学術会議のトップでもある。メンバーの多数派はこの予算に否定的なのだが、
学術会議を代表する人間が肯定的という図式になっている。
大学の研究者の立場でこの出来事を見ると、なかなか悩ましい。この予算が創設されてから既に二度の募集があった。
最初の年は研究者間に噂が飛び交っていなかった。そこに他の研究公募と同じような形で公募要領が流れる。
近年の大学はとにかく予算が削られていて、佐賀大でも今年辺りから研究費用どころか教育費も足りなくなっている。
学生から授業で必要な費用を徴収する。それが官僚的な意味での解決策だが、現場の我々教員は気が進まない。
授業で配るプリントを減らしたり、小さく印刷したり、そんなことまでして費用削減をしなければならない状況だ。
そこで「外部資金、外部資金」とうるさく言われる。各種予算の募集に応募してくれ、と言うことだ。
そこに降ってきた防衛省の研究公募。反射的に「あっ、自分の研究なら応募できる」と判断して応募するのは勢いだ。
日本学術会議の声明は、知らなかったり、知っていてもその瞬間に思い出さなかったり...。
そして後から大激論が始まった。この研究公募はいかがなものか、軍事研究に相当し、声明に反するのではないか?
応募した個々の研究者が今どんな精神状態に置かれているのか、もちろん人に依るだろうけれど、少々心配している。
中には「応募しなければ良かった」と後悔している人もいるに違いない。
そんな中での二回目の募集だった。予算枠は倍に拡大したが応募数は逆に減った。何と言ったって“曰く付きの予算”。
確かに予算削減で大学は困っているけれど、これは通常の予算とは注目度が違いすぎる。
そうこう書いているうちに日本学術会議の声明案が出た。政府の介入が著しく、学問の発展に望ましくないという内容。
これで益々応募しにくくなったが、それで良いと私個人は思う。
防衛省の予算の話が長くなったが、今の日本で防衛予算は膨張傾向にあるのは、何となく知っている人が多いだろう。
研究公募もそうした動きの流れの中で出てきた出来事なのだ。
現在の極右政党
日本で現政権が誕生した時の中国の反応は私には奇妙に映った。尖閣諸島の領有権を巡る対立が始まった後だった。
そんな中で迎えた日本の選挙で保守強硬派の安倍自民党が勝利するのに、中国は大きな貢献をした。
それだのに「選挙結果に落胆している」という。中国の現政権はそんな国際政治のイロハも知らないのだろうか?
理屈は簡単。隣国が攻撃的な態度を見せれば、選挙では強く反発する候補者に票が集まる。
そのため対立し合う国同士の強硬派は、実は「互いに利益を共有している」と指摘されている。互いに攻撃し合うことで、
それぞれの国の中での強硬派の立場を強化することに繋がるからである。
意識的に連携しているケースはさすがに多くないものと思うが、隣国が強硬な態度をとったときにそのニュースをみて、
強硬論者が「これで我々の主張に賛同する人が増える。良かった。」と心の中で歓迎する場面は想像に難くない。
そして街頭演説では逆のことを言う。「強硬な○○に屈してはならない。軍事衝突に備えよう。」と言う具合に。
2つの国の強硬論者は互いに罵りあって、表面上は対立の急先鋒なのだけれど、内実は逆に相互依存関係にあるのだ。
だから中国の指導者が選挙中にあれこれ発言したからには、強硬論の安倍政権の誕生を期待していたはずなのだ。
中国指導部が本当に日本との対立を避けたいのなら、日本の選挙期間中には領土問題に言及しないのが正解である。
そうしなかったからには中国指導部は日本との対立を望んでいることになる。
対立を望む理由は大概国内事情だ。政権に向かう国内の批判をそらすために、外国との対立が必要なのだ。
けれども「あんなに厳しく言ったのに、強硬派が選挙で勝つなんて! 」と言う反応は奇妙だ。演技にしても少々稚拙すぎる。
彼の発言がどちらに作用したか、選挙直後には素人でも見えてしまうのに。
竹島を巡る韓国との対立も同様だ。選挙を控えて劣勢の韓国現政権与党が、唐突に仕掛けたパフォーマンスが発端だ。
そんなパフォーマンスに韓国国民は簡単に引っかかってしまい、その結果が今の日韓関係だ。
日本は先の大戦で中国にも韓国にも迷惑をかけた。その事実は日本人としては決して忘れてはならないが、
それを利用して国民の支持を得ようとする両国の政治状況には落胆させられる。
結局それは国民のためではなく、自分のため、良くても政党のために動いているだけである。その結果の損失も大きい。
日本との対立が経済に悪影響だし、最悪戦争に繋がる危険性まである。
韓国の状況があれ以来悪化してさっぱり改善しない中で、今度はアメリカで同じようなことが起きたのには驚愕した。
メキシコを攻撃することでアメリカ国民の支持を得る、そう言う戦略で実際に選挙に勝ってしまうのだ。
懸念するポイントは、韓国やアメリカの政治リーダーではない。彼らをリーダーに押し上げた両国民の意識こそ問題だ。
他者への不寛容、強硬論。まるで開戦前の日本国民のようだ。
今後アメリカがどんな方向に進むのか、皆が注視している。政権移行からまだ日数が浅いが、少しは私見を述べよう。
元々アメリカ第一主義には、2つの対立軸が共存していて、既にその影響が表に現れ始めている。
アメリカ人の雇用を守る、つまり経済最優先ということは、アメリカの尊厳を取り戻すことと矛盾するところがある。
例えばTTP脱退が持っている意味合いは、アメリカが貿易に関する国際的なルール作りに関与しない意志表示でもある。
国際社会での影響力を失っても、国内の雇用を優先する政策だ。
中国の海洋進出に対しても、それはアメリカの経済にとって関連性が乏しいから無関心、それが選挙前の主張だった。
日本や韓国の米軍はアメリカ経済に貢献せず、負担になっているから削減する方向だった。
そこで中国政府は期待したのだが、蓋を開けてみると、アメリカ新政権は中国に対して厳しい注文を付ける。
北朝鮮への対応も日本にとって重大関心事だが、近頃は政権内部に空爆も辞さないとの意見も出てきていると言う。
北朝鮮との関係は2国間対話で解決、と主張していた選挙前とは様変わり、変節もいいところだ。
最近の予算案ではついに軍備増強路線に向かっている。こうして新政権の政策は、当初と正反対の方向にブレている。
アメリカは国外の問題に積極的に関わるのか関わらないのか、初めから軸足が定まっていなかった。
日本にとってアメリカが東アジアの問題に関心を持ち続けてくれることは、マスコミなどが言うように有難いことではある。
けれども北朝鮮に空爆をして貰って、それが有難いかと言えばノーだろう。
それは東アジアで戦争が勃発することを意味している。米軍を抱える日本も、戦争に巻き込まれてしまう可能性が高い。
確かに隣国の行動には困っているかも知れないが、彼らと戦火を交えたいわけではない。
軍事抑止論に内在する自己矛盾
ここには軍事力抑止に内在する構造的欠陥が潜んでいる。例えば核抑止論を考えよう。なぜ核兵器が戦争を防ぐのか?
核攻撃の悲惨な結果を避けたいと思うから、相手国が先制攻撃を控える、と言う論理である。
一方で核兵器は「使えない兵器」とも呼ばれている。核兵器を使用したときの国際的評価が問題だ。
そこで核攻撃は「現実にはあり得ないもの」だとしたら、核攻撃を恐れる理由も消えて、抑止力も失われてしまうのだ。
核兵器が抑止力を持つためには、それが使用可能な兵器である必要がある。
何も核兵器に限らない。軍事力に戦争を抑止する面があるのは事実かも知れないが、それには別の戦争が必要である。
現実に戦争が起きること、それが兵器に抑止力を与える必要条件である。
これは戦争抑止と言う観点からみて自己矛盾である。「戦争を防ぐために戦争が必要」という論理構造が内在している。
軍事力による抑止効果には元来このような自己矛盾があること、それを踏まえて現実の問題に戻ろう。
仮にアメリカ軍が北朝鮮を空爆したら北朝鮮は、核兵器の使用を手控える義務がなくなる、との考えを表明している。
米軍に基地提供をする日本は、「敵国の一味だ」と考えてミサイル攻撃の対象になるのではないか?
現在の北朝鮮の行動を考えたらほぼ確実にそう主張してきそうだ。もし仮に米軍だけ狙ったとしても、
正確に在日米軍基地だけに被害を与えるような、超高度なミサイル技術があるわけではないから周囲も巻き込む。
一方アメリカにとっては、今の内に北朝鮮を叩いて置いた方が得策かも知れない。
まだ北朝鮮のミサイルはアメリカ本土に届かないけれども、それを目指して急速にミサイル技術を向上させているから、
将来の米国の危険を取り除くには、攻撃が日本と韓国に止まる今がそのタイミングだ。
さてこうした文脈の中で抑止力はどこに行ったのか? 米軍に空爆された時点でもはや北朝鮮に反撃しない理由はない。
一旦戦争が起きてしまうと、もう基本的には抑止力は働かないと思うべきなのだ。
更なる戦争を恐れる可能性はゼロではないとしても、更なる攻撃を恐れて先に攻撃を仕掛ける方が普通の発想だ。
では逆にアメリカにとってはどうだったのか? 将来の北朝鮮のミサイル攻撃の芽を摘むために今攻撃するという判断だ。
北朝鮮の軍事力を恐れている点では同じなのだが、それが戦争を避ける動機にならず、
逆に戦争を仕掛ける動機になってしまっている!
どうしてそんなことになるのだろうか? 軍事力が戦争を抑止するかどうかは、本来極めて状況依存的な作用なのだ。
今の場合は北朝鮮のミサイル技術の進展が動機だった。そろそろ米国本土に届きかねない状況だ。
けれども今の時点なら安全に攻撃できるから、今のうちに北朝鮮の軍事力を潰しておこう、と言う考え方。
北朝鮮の現在の軍事力とその進展状況が、米軍の今の力との相対的関係で「今攻撃するのが得策だ」との結論に導く。
そのように軍事力を持つことは、それがあることで他国の攻撃を招いてしまう可能性もある。
日本にとっても同様にこのシナリオでは「在日米軍が裏目に出る」ことになる。米軍駐留がない場合を想定してみよう。
多分北朝鮮は日本を攻撃しないだろう。アメリカに空爆されている最中に、日本と戦争する理由がない。
米軍に協力していることが攻撃する条件を成しているのであって、無関係な国を攻撃したら益々苦境に陥るだけだ。
ところが一般には、米軍駐留の意義は米軍がいることによる攻撃抑止効果である、とされている。
日本にとっても抑止効果は、状況依存的に容易に反転してしまう。在日米軍が戦争を防ぐのか、逆に戦争を招くのか?
このように状況依存的に逆の作用も生み出すのが軍事力抑止のもう一つの欠陥だ。
実際問題としてアメリカが北朝鮮を空爆するとは限らない筈だ。しかしそれは北朝鮮軍による抑止効果の故ではない。
やはり外交交渉だけで北朝鮮の軍備増強を止められれば、その方がアメリカにとって負担が少ない。
それに国際世論もあるだろう。先制攻撃で空爆するとなると、アメリカの威厳にはマイナスの効果があるに違いない。
その前に“完全なる悪者”に北朝鮮がなっているのが望ましい。
そう考えると最近の北朝鮮の行動は合理的でない。自ら“完全なる悪者”になることを目指している、と言っても良い。
頻繁にミサイル発射を繰り返しているだけでなく、「兄を殺してしまった。しかも化学兵器で」と言う報道は印象悪い。
指導者の必要以上の猜疑心がそうさせている、と識者が解説していたが、そうなのかも知れない。
いずれにしても北朝鮮はアメリカに対して、北朝鮮を空爆するための敷居を低くして、現実味を帯び始めている。
その結果は既に考えた通り、日本や韓国にとって望まないようなもの。北朝鮮からの米軍に対する反撃を受けてしまう。
言わば“アメリカの安全のための生け贄”である。
軍備が北朝鮮の攻撃を誘いかねないのは、在日米軍に限ったことではなく、日本独自で整備している自衛隊でも同じだ。
北朝鮮が自国をターゲットにしていると考えれば、あるいは自国民に対してそのようにアピールできれば、
今の北朝鮮指導者の行動からすると、それを攻撃目標にしてくる可能性がある。全ての軍事力が戦争を誘発しかねない。
軍事力には状況依存的に、抑止効果と相反する戦争誘発効果もある。
(追補 3.24) テレビの女性キャスターが「軍事施設が逆に攻撃を招くような気がするんですが」と質問していた。「同感!
それに対して政治家は抑止論を語ったが、答になっていないと気づいてか「先制攻撃ではない」と論点を変えてしまった。
つまり結局は攻撃を受けると言う話になってしまったのだ!
太平洋戦争までの道のり
それでは私たち一般市民に何ができるだろうか? それを考えるために日本人が過去に犯した過ちを振り返ってみよう。
まず認識しておくべきことは、戦争は「戦争するぞ」と宣戦布告して始まるとは限らない点だ。
小規模な武力衝突が拡大して気づいてみたら戦争状態に入っていた、なんてことは良くある。日中戦争もそんな感じだ。
最近の尖閣海域や南シナ海でのニアミスが恐れられているのもそのためだ。
大戦中日本はドイツとイタリアと併せて「枢軸国」と呼ばれた。枢軸国が周辺国に攻め込み、第二次世界大戦が始まった。
この中でドイツは第一次世界大戦の時も周辺国に攻め込んで、痛い目を見た筈なのに「またしても」だった。
そのドイツで、第一次世界大戦の後に成立したワイマール憲法は、民主的な憲法として知られる。
国民の意志が政治に反映されるだけでなく、様々な権利などが定められて、今日の世界の民主憲法の雛形にまでなった。
その憲法を戴くドイツが再び戦争に向かったわけだが、それはどうしてなのか?
マスコミは「国民は善良で戦争を望まないのに、政治に携わる人たちが戦争を起こした」と言いたがる。
けれども実態はそうではない。戦争を望んだのは国民であったりするのである。ワイマール憲法は戦争を防げなかった。
まずドイツの民衆はナチス政治を民主的に選んだ。ナチス政府が国民の権利を奪う際にも、
ちゃんとワイマール憲法の民主的な手続きに従って進められた。その結果ワイマール憲法は実効性を失ったのであるが。
しかし「国民はだまされた」とばかりも言えない。
今の私たちを思い出そう。集団的自衛権の経緯はまだ記憶に新しい。野党が「解釈改憲」と反発したが、国民はどうか?
憲法が国民主権を定めているのに、その内容を政府が自由に解釈で変更できる、と言うのでは意味がない。
そもそも憲法を定める必要さえないかも知れない。政府がやりたいようにやるだけなのだから。
あの出来事は「国民の政治に関わる権利を無効化する」意味をおびていたのだけど、政府支持率はすぐまた持ち直した。
国民は意外に簡単に、自らの権利を政府に差し出してしまう。そして戦争に対しても時として積極的な世論が形成される。
決して「国民=善良、政府=悪」のような単純な構造ではない。
けれどもマスコミが「国民=善良、政府=悪」のような単純な捉え方をするのには、「そうせざるを得ない」理由がある。
単に「分かりやすく」だけではない。マスコミにとって国民はお客さんだ。そのお客さんを悪く言うことはできない。
だから他のところに責任の全てがあるかのように表現してしまうのだ。
それに理想の問題もある。民主的な社会システムが良いと考えている。私に言わせれば「それが一番まし」なだけだが、
「理想的な社会システムなら戦争なんて起きないんです。」と言いたい。
国民主権が戦争を防ぐに無力だったり、逆に国民の方が政治家よりも好戦的な考えを持っていたりする、と言う事実は、
マスコミのみならず、我々知識人にとっても「不都合な真実」の一つなのだ。
第二次大戦に向かう前の日本は、徐々に国際社会に背を向けて強硬路線に進んだのだが、その時も世論が後押しした。
国際連盟を脱退したときにも、実は日本政府としては脱退しないで済む方向を模索していたらしい。
ところが日本国民の世論は強硬論だった。国民の意見を無視できないとしたら妥協の余地が小さく、すぐ決裂してしまう。
対立を煽る国民世論に、政治家が振り回されていた。当時の状況がよく分かる。
戦後の東京裁判ではご存じの通り、日本国民は戦争を始めたことの責任を負わされず、政治家が裁かれたわけである。
現実問題として国民全体を裁くのは不可能だから仕方がないが、本当は間違っているのかも知れない。
ただ単純ではない。国民世論が好戦的ならば、選挙で選ばれる政治家もそう言う人たちに入れ替わっていき、
その政治家が国家のリーダーとして国の内外に発信するようになると、今度は政治家に国民が引っ張られる状況になる。
政治家と国民の関係は相互に絡み合って、国際連盟脱退の時は国民世論が政治家が引っ張ったのである。
満州事変は日本軍の自作自演だった、と国際連盟の調査団が結論づけたとき、それを日本の外から見ていた人々には、
当時の日本の行動が、今の北朝鮮のように見えていた、と考えたら良いのではなかろうか?
外から見たら「誰も支持しないのが当然」のように見える出来事について、当事国である日本の国民には違って見えた。
世界中を敵に回しても日本は正義を貫くのだ、みたいにして国民は国際社会から孤立する日本に酔った。
このように同じ出来事が国の外と中で全く違って見える、と言う事実は、今後の平和維持を目指す上での大きな教訓だ。
その国の世論になびくマスコミに自分も騙されて、間違った認識を持つかも知れない。
本当の敵は自分の中に
再び「私たち一般市民の役割」に戻って考えるときがきた。上記を受けて、「好戦的世論を作らない」と言うことになるが、
個人個人に引きつけていえば「好戦的にならない」こと、隣国の行動に腹を立てても冷静になる必要がある。
不当な要求に無軌道に譲歩する必要はないだろうが、そこで怒ってしまってはいけない。
怒りは相手国の強硬論者を応援する結果になってしまう。相手国の中で対話を目指す人々を応援しなくてはいけない。
そして自国の中でも強硬論者ではなく対話主義者を応援しなくてはいけない。
更に言うと、個人個人の中にも強硬論者と対話主義者が同居している。米ソの冷戦終結の時の経緯は良い例だと思う。
当時のアメリカ大統領はいわゆるタカ派、強硬論者だった。そこにソ連のゴルバチョフが友好的態度を示した。
米ソで歩調を合わせて、それぞれが保有する核兵器を削減しようと言うのだ。
これに米国大統領も疑いの目を向けるのではなく、応じる度胸があったため、「冷戦終結」の歴史的転換が実現できた。
こうしてタカ派の大統領の中から、思いがけない平和主義者の顔が現れた。
今の北朝鮮指導者を見ていると、どんなに友好的な相手にも猜疑心に駆られて、攻撃してきそうな気がしてしまう。
けれども昨年のアメリカ大統領選の後に、彼も軍拡一辺倒ではないらしいことがほの見えた。
大統領選後しばらくの間、ミサイル発射を控えていた様子を考えると、あのときが対話のチャンスだった。
もしあの時、日米から対話を呼びかけていたら現状を打開できた可能性があることを、私は不注意で後から知った。
確かに彼は武装しないと不安に駆られる小心者かもしれないが、対話も可能だと考えられる。
そう言われても不安を感じる人が多いだろう。友好的雰囲気を作っても相手が本当に応じてくれるのか、確実でない。
やっぱり「もしもの時のために軍事力での優位を保っておくべきではないのか?
その気持ちがまさに猜疑心なのだ、と言うことに気づけば、何故戦争が起きるのか、真実が見えてくる。
既に見たように軍事力には抑止力だけでなく、逆に戦争誘発力もあって、確実でない点では同じである。
確実でないばかりか逆効果になる可能性もあるのだから、差し引きマイナスと言うべきかもしれない。やはり駄目だ。
軍備を拡充して備えていても、それでも安全というわけにいかないならば、一体どうしたら不安を取り除けるだろうか?
真実は、「戦争を確実に防ぐ方法は存在しない」 のだ。
この真実を直視することは、精神力のいる厳しいことかも知れない。けれどもそれを踏まえて考えないと意味がない。
だから確実な方法はない、ことを出発点に考えていこう。
ところで以前この場で提案した「社会性防衛力」はどうだろうか? 軍備を遙かに超える強力な防衛力があるのだから、
戦争抑止力も「社会性防衛力」に備わっていると期待することはできないだろうか?
この問いへの答えはYesである。抑止力が生まれる仕組みは基本的に軍事力と同じである。
仮に戦争を仕掛けても、反撃が怖いからだ。ただし反撃するのが相手国ではなく国際社会である点が軍事力と異なる。
あのとき分析したように「社会性防衛力」は、全ての国にとって最も基盤的で、
これなくしては国家が存続することさえも困難な程の、欠くことのできない防衛力である。
防衛力というとまず軍事力を想起するのが普通だが、それはむしろ付け足しに近いことが判明したのだった。
そして「社会性防衛力」の大きさは、国によっても時代によっても異なってくる。
その国が国際社会の良き一員として振る舞っていれば、それだけ「社会性防衛力」が高まる、と言うことだった。
けれどもあのとき指摘したように、軍事大国化することは自国の「社会性防衛力」を削ぐような面もある。
考えてみれば当然だが、防衛力と戦争抑止力とはイコールではない。区別しながら議論を進めることにしよう。
軍事力の場合には上で考察したように、しばしば逆に戦争の原因にもなるが、それでも防衛に成功する場合がある。
「仮に戦争になって犠牲を払ったとしても、最終的に負けることはない」 それが軍事力による防衛のメカニズムである。
従って軍事力は、防衛力に比べて、戦争抑止の能力が低いと結論できる。
具体的な戦争の危険性として北朝鮮とのことを考えたが、更に深刻なのは中国との間で戦争になってしまうことだろう。
戦争抑止の点では北朝鮮との関係の方が現状では難しいが、防衛の点では中国相手の方が困難だ。
一般的には軍事力で勝れば大丈夫と思われているかも知れないが、それは甘いのではないかと考えている。
日中戦争時にはその条件が整っていた筈だが、戦争継続能力で中国に劣っていて、初めから勝算のない戦いだった。
あの広大な国土の隅々まで制圧することは実質不可能だから、軍事的に負けた時でも、中国は降伏する必要がない。
従って可能性は2つ。日本があっさり負けるか、長期化して日本軍が保たなくなるか。
中国を相手に考えたら軍事力による防衛力は、ほとんど意味を成さないので、防衛ではなく抑止で対応する以外にない。
現状では在日米軍は、中国に対しては北朝鮮に対するのと違って、抑止効果を発揮している。
中国の立場から見れば分かる。アメリカも中国と同じように広大な国土を持つ国で、戦争継続能力での優位性はない。
けれども今回のアメリカ大統領選で、在日米軍に頼った戦争抑止政策が持っている不安定さも垣間見えてしまった。
アメリカの政策が変化すれば、日本の意向に依らず撤収してしまうこともあり得るのだ。
そのとき中国から見て、日本の自衛隊による軍事力はもはや問題ではなく、降伏さえしなければいずれ勝てる相手だ。
もちろん中国も戦争して勝ったとしても得になるわけではないから、戦争をしない動機は十分ある。
国際社会での中国の立場を維持するには、日本を攻める正当な理由付けが必要になるが、
日本がこれからも国際社会の良き一員であり続けるなら、それは容易なことではない。
それこそがまさに、「社会性防衛力」の中身である。日本が「社会性防衛力」によって防衛に成功する可能性は充分ある。
だがそれには、軍事力は却って邪魔でさえある。
いずれにしても「社会性防衛力」と軍事力の関係は相反的で、上述の通りそれは対話作戦と軍事力と関係と同じ構図だ。
つまり選択肢はこうである。
選択肢(1) : 「社会性防衛力」強化 + 対話作戦
選択肢(2) : 「社会性防衛力」低下 + 軍備増強
具体的には北朝鮮と中国を念頭に検討してみたが、条件は大きく違うものの、戦争抑止の点ではいずれも選択肢(1)だ。
仮に戦争になったときにある程度の犠牲はやむを得ないとして、最終的に勝つか負けるかと言う点では、
北朝鮮を想定した場合のみ選択肢(2)も採用可能、と言うことになる。
このように整理してみると、どちらかというとの軍備増強よりも対話を求めるやり方の方が優れているように思うのだが、
読者諸氏はいかが思われるだろうか?
また日本だけで決めることではないが、在日米軍も中国と北朝鮮で逆の作用があったから、あまり効果的とは言えない。
軍事力が持つ戦争抑止力は、通常思われているよりかなり低いことが分かる。
この結論は論理的な分析なのであるが、それでもやっぱり「軍隊を持たない/減らす」ことに不安を覚えるかも知れない。
心理状態としては誰もが抱く「好都合な真実」だ、と指摘しておこう。
戦争回避のために我々個人が為し得ることを見極めようとしてきた。上の結論では、対話主義者の応援が、それだった。
対話主義者とは、今や相手国の対話主義者も自国の対話主義者も、個人の中に同居する対話主義者まで含むのだが。
そう言う広い意味の“対話主義者”の応援をするのである。
そうやって相互の内側にいる強硬論者の勢力を弱めることが、戦争を回避するために我々にできる有効な手段なのだ。
改めて記そう。怒りを抑えて対話を求めること。

(補足) 移民問題の難しさ
現在ヨーロッパが抱える移民問題は、アメリカよりも深刻なように見える。ご存じの通り、移民・難民の流入が止まらない。
内戦が続くシリアなどでは住居を壊され、生活基盤の全てが破壊された人々が難民となってヨーロッパを目指す。
だから戦場と化した町が丸ごと宙に浮いて、その町民が難民になってヨーロッパにやってくるのだ。
難民申請に対する判断は、その個人が置かれた状況に依って決まる、ことになっている。
けれども難民を受け入れる国にとっては、際限なく難民がやってきたら対応しきれなくなる。
これは現実の社会の構造からくる制約であるから、社会正義の観点で不都合だからと否定しても逃れられない。
安定した社会には十分な数の生産人口がいて、子供やお年寄りなどを支える構造ができあがっている。
その構造の中に新参者が居場所を確保するまで、社会は彼らを支えなければならないことになる。
しかも地域の生産力が支えることのできる人口にも限りがあるし、受け入れ自体にも労働力を割かなければならない。
難民を社会が受け入れるプロセスには、時間も労力もかかるのである。
公正なルールというものは、難民として受け入れる条件を事前に決めておいて、人数とは無関係に判断されるものだ。
難民申請をする個人の立場で考えてみれば、「公正」の意味がよく分かる。
「難民が多いからあなたを送り返す」と言われたら、それは、自分とは関係のないの誰かに原因があることを意味する。
以前受け入れられた人よりも厳しい状況にあるのに、送還されてしまうとしたらどう感じるだろうか?
だから難民認定基準には人数が考慮されて来なかった。あるいは、問題になるほど大人数にはならない、と見てきた。
その前提が崩れたときに、社会を安定させられなくなるのは必然である。
社会正義の観点からは人数ではなく、個々人の置かれた状況で判断したい。そして世界はその理想の基に動いてきた。
その意義はよく理解できる。それを理解した上でなお、今や我々は新しい道に進まざるを得ないのではないかと思う。
人数制限を事前に決めておいて、それを超えたときに受け入れを停止する。ここで少なくとも人数は事前に決めておく。
もし誰か難民の顔を見て「今から送還する」と決めたら、益々社会正義に反するからだ。
当面はそのような対応を取らざるを得ないとしても、難民輩出地域の状況を改善する働きかけはできるかも知れない。
今すぐに実効性を期待できる状況ではないが、長期的にはそうして難民の発生そのものを断つことが求められよう。

(写真について) クダマキモドキの幼虫を撮影しようと構えるカメラの前に、不意に樺色のイトトンボが飛び込んできた。
いつまた飛び立つか分からないイトトンボを先に撮影することにして、カメラを構え直してシャッターを切った。
気配を察してかイトトンボは少し飛んで近くに止まったのだが、そこで初めて気がついた。
このイトトンボは別の青いイトトンボを食べているのだ。見たところ、両者の体の大きさはほとんど違いがない。
もしかしたら食われているイトトンボの方が大きいかもしれないほどだ。どうしてこんなことが可能なのだろうか?
しかしこの場面の本当の恐ろしさに気がついたのは、翌年になって写真を整理しているときだった。
どうして同じ大きさのイトトンボを捕まえられたのか? それは犠牲者も同じ種類のトンボで無防備だったからではないか?
体の色が全く違うし、同種での共食いは種にとって損失なので、最初は別の種類のイトトンボだと思っていたのだが、
別種が近づけば警戒するから、力関係に差がないと、逆襲されて逆にやられる危険性がある。
だから自然界では、明らかに自分が優位の場合に襲いかかるのが普通で、テレビなどの“死闘の場面”はごく希なのだ。
だから撮影したときも「不思議だ」と感じていたのだが、写真を整理するときに、謎を解く鍵に気づいてしまった。
そこで調べてみた。ほぼ間違いないと思うが、両方ともアオモンイトトンボで、食われているのが雄、食っているのが雌だ。
昆虫の世界にはよくある悲劇だった。
戦争について「同種間で殺し合う愚かな生物は人間だけ。」と言われることがあるが、それは嘘。殺しも戦争もあるのだ。
やっぱり思考停止して自然崇拝に酔ってしまうと危うい。現実の自然界には、見たくない部分もある。それを知ってなお、
戦争の、殺戮のない世の中を私たちは希求する。自然界の法則を逃れたいと...。


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