好都合な真実     2013.5.10          
 

アル・ゴアの『不都合な真実』の逆で「好都合な真実」。好都合で真実ならそこには何も問題がないように見える。
「みんなハッピー、それでお終い」と普通なら考えるところだが、現実は全く違った様相を見せるのである。
最初に断っておこう。「不都合」とか「好都合」とか言うときに、その人の立ち位置によって変わってしまう。
例えば軍産複合体(軍隊と軍事産業からなる利益共同体)の一員であれば、建前はともかく本音を言えば、
平和よりも緊張状態の方が自分たちの利益にかなっている。大多数の人々の利益に反して。
石油業界の一員であれば、自然エネルギーを推進することは、本音を言えば不利益である。
しかしここでは世間一般の建前として推進すべきと見なしていることを受け入れて、その文脈に沿って
当面「不都合」とか「好都合」と言う言葉を使うことにして、最後に改めて見直すことにする。
さて人間は「不都合な真実」と同じように、「好都合な真実」に向き合うのも意外なほど苦手である。
「理想はこうだけど、現実は難しくて、結果的に現状を肯定する以外に仕方がない」という結論に安心する。
ここで言う「好都合な真実」とは、「実は理想を追いかけて良い」ことを示す真実が示されると言う意味だ。
ところが理想への一歩を踏み出す勇気が無くて、躊躇してしてしまうのである。
「そんな好都合な話があって良いのか。何か間違っているのではないか」 間違い探しに駆られて、
何とか間違いらしきものを見つけることで安心しようとするのだ。それ自体が間違いであるにも関わらず。
こういう時には誰しも批判力が鈍ってしまうから益々やっかいである。
こうした例には枚挙にいとまがない。先に話題にした「社会性防衛力」もそう言うものの一例と言って良いし、
自然エネルギーへの転換の現実性(いずれ触れたいと思う)や、拙著で論じた「自然と人間の良い関係」の可能性、
こうした「好都合な真実」に我々が容易に気づかないのには、それなりの理由がある。
「理想的だし、現実的でもある」のに、実際にはそのように行動しない、あるいは誰もそれを言わない、
と言うのは如何にも不自然だから、にわかには信じられないと言うのは健全な感覚である。
「うまい話には裏がある」 気をつけましょう、と言うことだから簡単に信用してはいけない。
そういうわけで慎重に現状を維持して、「好都合な夢物語」と捉えることの方に現実味を感じるのである。
ところが多数の人がそのように考えると、結局「好都合な真実」は隠蔽されたままになってしまう。
その現状を観察して「うまい話があるわけがない」と疑うとすれば、後は堂々巡りである。
そんなわけで「実現していない」ことは、それが「好都合な夢物語」であることの根拠にはならないのだ。
  好都合な真実 ― 好都合な夢物語
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  不都合な真実 ― 不都合な夢物語
このような心理状態は少女漫画の「恋の病」に通じるものだ。胸が痛んで医者に診て貰うがどこにも異常はない、
と言うお決まりのパターン、あれのことだ。実際には経験しない人も多いのではないかと推測するが、
それは自分を分析した結果、相当程度まで個人的資質に依存しそうだ、と言う結論に至ったからだ。
非常に有益な情報は恋愛感情とは関係のない場面で同じ症状を味わった経験から得られた。
実はこの文章を記述している今現在も、軽微な「恋の病」を発症している。
少なくとも私の場合、「好都合な真実」が症状を引き起こす原因になっていたのである。
理性的に考えれば恋愛感情は抑制すべきものではない。けれども直感的には抑制すべきものと感じてしまう。
その抑制感情に理性が働きかける。そういう時に胸が痛むのである。
このように「恋の病」を分析してみたところで、そのメカニズムが解明されたわけではない。
メカニズムを解明するための手がかり、入り口を見つけたに過ぎない。
しかしこの分析から、万人が経験するものかどうか、と言う点に疑いを持っている。この精神状態になるには、
ある種の「後ろめたさ」が存在して理性と直感がせめぎ合い、その絶妙なバランスがなければならない。
素直に恋を肯定しても、逆に理性で考えることなく恋を避けても、せめぎ合いにはならないだろう。
一般に認知されている点では少女漫画から言って明らかと思うが、この例示の説得力にいささかの不安もある。
しかしとにかく、人間は「好都合な真実」に直面すると不安感に襲われる、その前提で結論を述べよう。
その不安感から逃れるために、「好都合な真実」が否定されることを願う。その結果の本人の選択は、
客観的に言って「不都合な夢物語」に止まることになるのだけれども。
ところで最初に、「不都合」とか「好都合」を限定して使うことにした。つまり、世間一般の建前として
推進すべきと考えられている方向に沿ってこれらの言葉を使うことにした。しかしながらこうした心理状態には、
本当はそのような制限は必要がない。世間一般の建前からは反するような個人の欲望に関して「好都合な真実」、
そう言う論理的帰結を発見したときでも同様の心理状態になり得る。一般的には平和を望む人が多い、
そのような状況を念頭に説明してきたが、そうでない人にとっての「好都合」である戦争の場合でも、
「普通は否定されるけど」と言う具合に立場を変えた見方をすると、その後の話は構造的には同じになるので、
この制限はもはや外して一般化しても構わない。


(写真について) 「甲州最小」と言う梅の品種。花も実も小さく、小さな梅干しを作るための品種である。
高校生の時から育てている。この一鉢の梅の木から私の園芸人生は始まったのだ。
一方「米良」と言う盆栽界で人気の品種がある。手元の園芸書に載っている写真を見ると花の形が素晴らしい。
花弁は綺麗に丸く湾曲して、短い雄蕊が花の中心に集まっている。そこで私も入手したのだが、
どうも園芸書の写真のような花は咲かない。雄蕊があまり短くないのだ! 
ところが二年前「甲州最小」の雄蕊がいつの間にか短かくなっていることに気づいた。何が起きたのか分からない。
「米良」の雄蕊の短さは写真で見ると非常に目立つのに、何故か品種の区別点には記述されていない。
もしや雄蕊の長さは老熟に伴って変化するのであろうか、などと考えたりしている。理屈は良く分からないが、
まるで童話の「青い鳥」のような経験だった。

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