井上ひさし『吉里吉里人』 
   -非武装宣言の現実性-    2013.5.7
 

先月書いた中国から見た世界の末尾に記した基盤的防衛力の話題について記しておこう。
稲葉振一郎の『ナウシカ解読』は、拙著『「青き清浄の地」としての里山』にとって最も重要な文献である。
その『ナウシカ解読』のはじめに、宮崎駿の漫画『風の谷のナウシカ』について
やや先走って言うなら、この作品は現代日本のユートピア文学の最高水準を示すものであり、
私見では思想的な深みにおいて井上ひさし『吉里吉里人』をも凌ぐ。これと比肩し得るものは
同時代的には隆慶一郎『影武者徳川家康』位であろう。
と記されている。この二つの作品に興味を持って読んでみた。どちらも大変長大な長編小説だ。
『影武者徳川家康』の方が私の好みには合っていたのだけれど、ここでは『吉里吉里人』について話そう。
『吉里吉里人』はそれ以前から存在を知っていたが、書名が印象に残っていただけで内容は知らなかった。
途中で読み飛ばしたくなるのを我慢して完読した。何が苦痛だったかと言えば、
「下ネタは語る(書く)貴方が楽しいのであって、聞く(読む)こっちは付き合わされるばかりで
ちっとも楽しくなんかない」と言うことだ。少なくとも私にはそう感じられた。
しかしそれとは別に「あっ」と心の中で叫ぶ重要な発見があった。そのことについて記したいと思う。
吉里吉里人は日本からの独立を目指すが、軍事力がないので独立を維持するには何か別の方法が必要だ。
そこで軍事力に依らない防衛方法が試されることになる。
結局は主人公の愚かな言動が原因で、この独立計画は失敗に帰するのだが、
この国が軍事力を持たないで独立を維持する方法は、かつて私が子供の頃にも聞いたものだった。
世界の国々に貢献して「国際社会の良き一員」になることで、
「この国に攻め込んではいけない」と思わせる。
と言う方法だ。初めて聞いたときには「理想だけれど現実は難しい防衛方法」と受け止めたのだが、
改めてこの小説を読みながら考えて見て、「あれっ! 理想どころか現実ではないか」と驚いたのだ。
イラクのクウェート侵攻を思い出したのだが、クウェートの軍事力は非力で、イラク軍の前に一日で陥落。
それにも関わらず最終的にはクウェートは独立を維持することになった。そのことは周知の事実である。
それがクウェートの軍事力に依るものでないことも明らかだ。
何故そのようなことが起きるのか考えた。
クウェートを守ったのは国際社会であり、決してクウェート軍ではない。
クウェート軍とイラク軍の戦いそのものは初日に決着が付いていた。
しかしながら国際社会はその決着を良しとせず、イラク軍の撤退要求が続けられた。
それでも撤退を拒んだため、最終的に多国籍軍が編成されてクウェートの奪還となる。
結果的にクウェートは国家の防衛に成功したのだが、それを成し遂げたのは彼らの軍事力ではなかった。
軍事力とは別の防衛力が存在して、それがクウェートの防衛力の本質だった、と見なければならない。
実際に動いたのは国際社会である。その象徴である国連が行動したのはもちろん、
国際世論もクウェートに味方した。欧米の世論もアラブ諸国の世論も同様であった。
クウェートが「国際社会の良き一員」だったかどうか、様々議論もできようが、
少なくとも「悪い一員」ではなかったから、国際社会は一致して動くことができたわけである。
この出来事をクウェートの立場から見れば、軍事力でイラクを凌ぐことは元々不可能だったわけで、
国土も狭いため、侵略を受けてから長期間の持久戦に持ち込むことも期待できない。
初めから隣国イラクとの戦争に堪えるような軍事力は放棄していたが、それは無理のないことだった。
それに代わるクウェートの防衛力は「国際社会の良き一員」となることだった。
このような防衛力のことを、「社会性防衛力」とでも名付けることにしようか。
定まった名称が無いか、ざっと調べてみたが分からなかったので勝手に名付けてみた。
通常の軍事力と異なって、防衛力の大きさを数値化して比較することが難しい。
軍事力なら兵員の数とか砲弾の数とか、そう言うもので数値化すれば、正確かどうかは別として、
とりあえず「どこの国の軍隊がどの程度強力なのか」比較することが可能になる。
メリットは純然たる防衛力であること。つまり軍事力のように侵略に転用できたりしない。
軍事力では「防衛のため」増強すると、隣国は「脅威」と見なして「防衛のため」に軍備増強する。
すると最初に軍備増強した国は更に軍備増強しないと足りない。軍拡競争の始まりだ。
しかも軍事力は「社会性防衛力」を削ぐ面もある。「軍事大国は嫌い」と言う嫌悪感だ。
一方デメリットと言うか、不徹底なところは、完全に軍事力から解放されるわけではない、と言う点だ。
「国際社会の良き一員」と認めらてくれた世界の国々の持つ軍事力が背景に必要だ。
確かにクウェートは「社会性防衛力」で国を守ったが、結果的に多国籍軍の軍事介入が必要だった。
これが機能するためには、軍事力に関する多数決のようなものが作用する必要がある。
つまり理性的な国々の軍事力の総計が侵略国を上回る必要がある。
弱肉強食の疑問
次のような問題に子供の頃から疑問を抱いていた。「強い国が弱い国を攻め滅ぼすとするなら、
国は併合されるばかりで、最後には世界中がひとつに国に収斂してしまわないのだろうか?」
そうならない理由は軍事力だけでもある程度説明が付く。軍備の中にも、例えば地対空ミサイルは
直接的には侵略に利用するのが難しい、そう言う性質のものが含まれている。
更にまた、相手国に進軍した兵員に物資を補給するもの負担になる。
その一方で侵略を受けた国は、国土が荒廃することで、軍隊を支える生産活動に打撃を被るし、
普通先制攻撃を仕掛けるのは侵略側だから、一方的に防衛側が有利になるというわけでもない。
けれどもこれらを差し引きした結果、多くの場合には防衛側の方が有利、と言う仮説は成り立ち得る。
この考え方は、所謂「(軍事的な)抑止力」と言われているものの発想と、大凡のところで一致する。
ひとまずこうやって私はこの疑問に決着を付けていた。
しかしながら上述のイラクとクウェートの場合には、どう考えてもこの説明は成り立たない。
軍事力が拮抗する二つの国家の場合には、「侵略より防衛の方が容易」で説明できる可能性もあるが、
イラクにとってクウェートは、あの時よりずっと以前から侵略容易な隣国だった。
その力の差と言ったら、打ち負かすまでに一日しか要しないとと言う衝撃的格差だったのだ。
防衛側に立つことの優位性が仮にあったとしても、軍事力の大小にかき消されてしまうのである。
石油資源は狭い国土にも関わらず豊富で、クウェート国民はイラクよりも裕福である。
イラン・イラク戦争の時の負債にあえぐイラクにとって、この石油資源は魅力的なはずだ。
イラクにして見れば、簡単に奪うことのできる財宝が目の前に積まれているようなものである。
けれども実際に侵略行為に及んだのは、隣国の石油輸出量に「我慢できない」と憤ったときだった。
それまで侵略をイラクに躊躇わせていた理由は何だったのか。
それが「社会性防衛力」と名付けたもの、クウェートの持つそれだったのだ、と言いたいわけだが、
ここまでの議論を振り返ると、驚くべき事実に気がつく。
世界の現状は、軍事力が拮抗する二国間関係よりも、軍事力が不均衡な二国間関係の方が多い。
つまり軍事的な抑止力が働かないのに国家間の平和が成り立つ場合の方が普通だったのだ。
現実のこの世界で、国家間の弱肉強食を防止している主要なメカニズムは、軍事的な抑止力ではなく、
ほとんど全面的に「社会性防衛力」に依っていたのだ。
抑止力という部分に注目するなら、「社会性抑止力」と表現しても良いかも知れない。
そう言う種類の抑止力によって、軍事的に劣勢にある国々の安全が確保されている。
わずか一日で攻め滅ぼすことができる程度のクウェート軍は、イラク軍にとって存在しないも同然だったが、
その圧倒的軍事力の優位性を帳消しにするだけの強力な「社会性防衛力」がクウェートにはあった。
イラクの自国民さえもが理由のないクウェート併合を喜ばず、政権に戦争を躊躇わせる力になり得る。
そう言う国内状況も含めて、「社会性防衛力」は大きな力を発揮するのである。
先に、軍事力と異なり「社会性防衛力」では防衛力の大きさを測ることが難しい、と述べたが、
少なくともイラク軍の軍事力を完全に凌駕していたことになる。それがこの出来事の示す真実である。
小説を読みながら、この真実に気づいて驚愕したのだった。
日本の「社会性防衛力」
このようなメカニズムから推測するに、日本は「社会性防衛力」を十分に備えていないかも知れない。
日本は数十年前に隣国に戦争を仕掛けた前科がある。これは心証良くない。だから危惧していたのだ。
ところが案外そうではないことを二年前の出来事が教えてくれた。
あの震災である。
いつも日本は世界の国々に災害復興支援を行う側だった。それは日本人としての誇りだったかも知れないし、
先の戦争との関係で言えば贖罪の意味もあったかも知れない。そう言う意味から、力を入れた方が良い。
だから「まだまだ足りない」とか「お金でなく人材派遣を」言うマスコミの論調には共感を覚えていた。
その見解には今も同意見だが、日本の「社会性防衛力」の大きさに関する認識は震災を機に変わった。
他国から支援を受ける側になってみて分かったことも多い。「こんな貧しい国までも支援して下さるとは...」
まずお礼を言葉にしなければいけない。お礼の必要性は人を介して政府に伝えて貰ったので、
もしかしたらその影響もあったかも知れないが、とにかく「絆」広告が複数の国の新聞に掲載された。
「絆」広告と同じくらいに、サッカー女子W杯で毎試合後に掲げた横断幕にもインパクトがあったと感じている。
ところが、その「絆」広告を掲載しなかった国の新聞から、「無料で掲載させてくれ」との申し出があった。
日本よりも貧しい国の新聞である。これも彼らなりの支援だったと言って良い。お礼にまで支援で応えて頂くとは、
感謝の言葉もない。
彼らが日本を支援しようとした動機は一体何だったのろうか。各国政府と国民の立場は違うけれども、
どちらとも支援に動いたわけだ。その理由は日本が「国際社会の良き一員」だったからに違いないのだ。
「社会性防衛力」を強化する要件は、多くの国々から「国際社会の良き一員」と認められることだった。
イラクのクウェート侵攻を考えていたときには、実際に戦争が起きてみないと
「社会性防衛力」の大きさを測ることができないと考えていた。
ところが震災によって、日本がどの程度多くの国々から「国際社会の良き一員」と認められているか、
その度合を知ることになったのだ。そうやって浮き彫りになった日本の「社会性防衛力」は、
私が想像していたよりもかなり大きなものだった。
「情けは人のためならず(必ず自分に返ってくる)」 日本の国際援助は日本自身のためになっていて、
民間人や企業まで含めた我々の活動が、軍事力よりも強力な防衛力の強化に結びついていたのである。
しかし軍事力よりも強力であるとは本当なのか? 論理的帰結は正しいように思えるのだが、
そんな好都合なことがあって良いのか、不安を感じる人も多いのではないだろうか。
これは私が「好都合な真実」と呼ぶことにしているものの一例と言えなくもない。
人間は不都合から目を背けるだけでなく、好都合に対しても不安感を抱いてしまうものなのだ。

現実には、ある国家の「社会性防衛力」の大きさに、その国が他国から見て「利用価値がある」とか、
決してきれい事だけでは済まない事柄が関与しているはずなのだ。
けれども確かにそこには軍事力ではない防衛力が存在していることがわかる。
しかもその防衛力の大きさは、世界屈指の軍隊をも跳ね返すほどの強力なものだ。
そう言う世界の現実の構造を直視したときに、我が国を含めて大多数の国々にとっては、
防衛力強化のために一番心を砕かねばならない事柄は「社会性防衛力」の維持ではないだろうか?
それを失ったときに、通り一遍の軍事力では代替することができないのだから。
「社会性防衛力」の強大さを見出したからと言って、軍事力から解放されたことにはならないのは既に述べた。
けれども軍拡競争からは逃れる、「軍拡競争から降りても良い」だけの根拠を与えるように思われる。
軍事力から解放されていない理由は、多数の理性的な国家の軍事力の総計に貢献する、と言うもので、
自国を防衛するためではないのだから、敵対する国家の軍事力を目安に軍備増強に勤しむ必要はない。
(日本の集団的自衛権に関する制約は当面忘れて一般論を述べた。)
決してきれい事だけでは済まないが、そう言うことも含めて「国際社会の良き一員」で居続けること、
隣人達に役立つ国であろうとすること、そのことが国家の存亡に直結する死活問題である。
それに匹敵する軍事力を身につけることが大多数の国にとって達成不可能な目標であるとするなら、
「社会性防衛力」に依存して国の安泰を確保する以外に、選択の余地は無いことになる。
現実の国際社会で実際に機能している基盤的防衛力は、軍事力ではなく「社会性防衛力」だった。
これは私にとって驚くべき発見だったのである。

(コロンブスの卵?) 「発見」と表現してきたが、本当にこれは「発見」と呼ぶのに相応しい内容だろうか?
この手の話をすると「そんなの当たり前な事で、目新しくもない」と言われることがある。
確かに振り返ってみると「当たり前」なことを言っているだけのような気がして、分からなくなってくる。
しかし冷静に考えると、「当たり前」とするのは状況証拠的に合わないようなところがある。
「当たり前」なら普通に聞く論理、つまり周辺国の軍備増強を脅威と見なす論理に対してすぐに批判意見が出るはずだ。
ところが実際には、国家の軍事力の大小を比較する議論が一般に受け入れられ、専門家からも訂正がない。
と言う事は専門家さえも見落としていた真理を見抜いてしまったのだろうか?
こういうときに専門家と言うのは一番困った存在になる。こんな簡単なことを今まで見落としてきた、とは言えない。
専門家としての立場上言えないわけだ。専門家と言うのは不自由なものである。
そこで専門家に頼らずに「当たり前か否か」判断する方法もある。「当たり前」ならザクザク大量の文献が上がるだろう。
とは言うもののさしあたって文献を調べる手間は省いている。だから実際のところは何とも言えないのだが、
もしかしたらこれは「コロンブスの卵」なのかも知れない。気がついてしまえば「当たり前」のような気がするけれど、
気がつく前には容易には気付けないようなこと。そのような真理なのだ、と思えば一応納得できる。

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