床下にアナグマが住み着いた!   2014.7.25 
   

一ヶ月ほど前のこと、明け方に「ドカドカ」と子供が走り回るような音がした。甥や姪の足音? 寝ぼけながら考えたのだが、
「そんなはずはない」と気づいてハッとする。
前日に庭にスズムシの幼虫を放ったばかりだ。それを狙った動物が出現したのだろうか? それなら撃退せねば!
眠い目をこすって激しく雨戸を開けたが、スズムシを放った場所には何も動物は居ない。私の気迫に驚いて逃げたか?
「しめしめ」と思ったらすぐまた音が再開したので、今度は別の窓の雨戸を開けた。そこで見た光景が上の写真だ。
家の脇のコンクリ敷きの下を動物が掘り返していた。窓から覗く私を見て「何だ? こっちは忙しいんだ」という風情である。
実は昨年もこの場所は何かの動物に掘られていて、犯人が分からないまま収束していた。
狸に似ているけれども何か違う。それ以上は分からなかった。とりあえず写真を撮っておき、後でゆっくり調べることにした。
「狸に似ている」と言う点を手がかりにネット検索したら簡単に分かった。
アナグマ、別名:狢(むじな)。
家の脇を掘り返す音だけでも充分迷惑だった。それにトイレの汲み取りタンクを引っ掻いている音がするのも懸念材料だ。
ところが、数日後に事態が急変して更に険しくなった。
床下に入り込んでしまって、台所の流しの排水管を引っ掻いている様子なのだ。トイレのタンクよりヤワな素材である。
流しの近くに、使用していない床下収納庫があるので、それを開けて激しい音を立てたりして脅すと止めてくれた。
しかし翌日もまた同じ音がして、再び床下収納庫から脅す。日中私は家にいないし、夜も台所から離れた部屋で寝ている。
ほとんどの時間は無防備だ。早急に追い出さねばならない事態になった。
日中家を空ける時間を使って、ダニ退治薬を床下収納庫の下の地面に設置して床下で発煙させる、と言うのが第一案だ。
知らない人も多いと思うが、ダニ・ノミ退治薬。今の家を中古で買った際に蚤がいて、そのために使った経験がある。
いくら傍若無人な“あいつ”でも、強烈な刺激臭に慌てて逃げ出すことだろう。そもそも逃げなければ死んでしまう。
あるいは蚊取り線香を沢山焚いて、煙で燻し出すと言う手もあるかも知れない。毒性はかなり低いが煙が多ければ効く。
ところがこれらの方法はリスクが高すぎるように思われる。私の留守中も家には多数の生き物が居る。
ハムスターを筆頭に、タガメやスズムシなどの昆虫類は、命の数にしたら大変な数に上る。今は夏でそう言う季節である。
床板一枚挟んで室内の空気だから、毒薬が室内に漏れてきたら彼らの命が危ない。
そこで出入り口になっているトンネルの中に罠を仕掛ける作戦にした。もし掛かったら敢えて小突き回してから逃がす。
仮に掛からなくても突然罠が作動すれば驚くだろうから、恐怖(と痛み)の記憶を植え付けられるだろう。
ところがやってみると罠に掛からない。罠自体は毎日作動して閉じているのに。
信じがたいと思ったのは、罠が作動していきなり目の前でバチャンと閉じたら、普通は恐怖を感じるだろうに平気らしいのだ。
その日もまた床下から音がしてくるではないですか! どこまで図太い神経の持ち主なのだろうか?
次の日は罠が引っ張られて閉じていたので、足か何かを挟まれて引き抜いたのだろうと思われたが、それでも逃げ出さない。
この方法では無理かも知れない、と思い始めた4日目にとうとう掛かった。
表現が難しいが、雀の鳴き声を拡声器で10倍くらいに大きくしたような声で、けたたましく叫び始めた。またもや明け方に。
音量は大きいものの、雀の鳴き声のような響きなので、困窮しているようにも怒っているようにも聞こえない。
この数日は毎朝早朝に起こされて寝不足続きだったが、これで寝不足も今朝が最後になる筈だ。
朝は時間に余裕がない。罠に掛かったままにするだけでも「恐怖の記憶」を植え付けることに繋がるので、放置して出勤した。
そうして半日後に帰宅した時にも、まだ“大音量の雀”が鳴いていた。
帰宅してから様子を見に行ったが、自分で掘ったトンネル内にいて、罠の鎖によってそれ以上中に入れない状態だった。
手を出せば引っ掻かれたり噛みつかれる危険性が高く、このままでは罠を解くことが出来ない。
そこで今度は掘られたトンネルの地面より低くなっている部分、つまり罠を設置した場所にホースで水を流し込んで放置した。
何時間か経つ内には周囲の土壌中の水分が過飽和状態になって、それ以上水を吸わなくなってくる筈だ。
そうなればトンネル部分に水が溜まって、外に出てくる以外になくなると言う計算である。床下に逃げるには罠の鎖が短い。
けれども次はまた朝の気ぜわしい時間帯だから、水で確かに追い出されるのを確認しただけで一旦水を止め、翌日に再開。
そして翌日は休日だったから、ついに罠から逃がすときが訪れた。
近づくと牙を剥きながら「シューシュー」と音を立て威嚇してくる。“大音量の雀”は既に音量が下がって頻度も減っていたが、
鳴いても無意味だと学習しただけのようである。体力が衰えたのかと思って、早く罠を解かなければと思っていたが、...。
もし手を出して噛みつかれたりでもすれば、指が食いちぎられてしまいかねない。
体長は40cm程度しかないけれども、横幅のある体格で力はありそうだ。口も結構大きく開いて犬歯は人間より大きい位だ。
とは言えやはり身体の大きさでは断然こっちに分がある訳で、道具を準備して戻ったら水に入ってしまっていた。
まず長い鉄製の杭がもう一本必要なので、別の場所でロープを張るために利用している杭を抜いてきて使うことにした。
その場所のロープについては急遽、杭を使わないで済むようにアレンジし直しておいた。
2本になった杭を使って少しずつ引き出して、罠の固定位置を手前に移動して罠が操作できる位置に来るようにした。
トンネルの外に出てきたら、頭や背中を棒で叩いて「恐怖の記憶」を植え付けるようにしたけれど、恐らく叩かれたことよりも
長時間動きが制限されていたことの方が堪えたに違いない。
いよいよ罠から解く瞬間だ。
噛みつかれないように残っている方の杭で押さえつけ、その杭を足で踏むことで“遠隔固定”しておき、残る足で罠を操作した。
手は噛まれたら危険なので使わない。それでも罠から解かれた瞬間の行動によっては、危険がないわけではなかった。
「窮鼠猫を噛む」の勢いでかかってこられたら脚に怪我を負わされるが、それは野生生物にとって正しい行動ではない。
とにかく逃げるのが先決な筈だし、少し離れた間に水に入ってしまった先程の行動からして、多分かかっては来ないと見た。
実際に解いてみると、威嚇しながら後ずさりして、丸太の間に嵌り込んでしまった。
出来れば敷地の外まで追い出したかったが、それ以上バックできないためか、棒で脅したりしても丸太の間で猛り狂うばかり。
仕方なく放置して暫くしてから見に行ったら姿を消していた。
それから既に2週間ほど経つが、さすがに戻っては来ない。アナグマを追い払った翌日は、どこか寂しい妙な気分を味わった。
もちろん戻って来ては欲しくない。あんなに迷惑していたのだから。けど平穏を取り戻してみると苦しめられた日々が恋しくなる。
我ながら人間の感情というものは奇妙なものだと思う。

「命の授業」
ところで実は、恐怖を与えて逃がす以外にもう一つ方法がなかったわけでもない。アナグマは美味らしいのだ。タヌキと違って!?
つまり料理して食べると言う方法もあった訳だ。けれども動物を屠殺して料理するまでの技術はない。
方法を調べれば出来なくはないだろうけれど、それを経験しておくことの意義とそのための労力を天秤に掛けて見送った。
「人間は生き物を殺さずに生きていくことが出来ない。」
観念的には誰もが知っている筈の真理であるが、この真理を直視するには並々ならぬ精神力を必要とする。
江戸時代に自分は屠殺した動物の肉を口にするのに、屠殺自体は被差別部落の人々に押しつけて、その人々を蔑視していた。
これが質の悪い偽善であることは歴然としている。
他人に屠殺させれば、見たくないものを見ないで果実だけを得ることが出来る。そう言う偽善にいとも簡単に陥る人間の限界。
本気でこの問題に向きあったなら菜食主義に辿り着く以外に道がない筈なのだが。
けれども菜食主義に関しても不完全な部分が気になってしまう。「植物だって命には違いないのに。結局本質は同じなのでは?」
動物には腐食連鎖に属する者達が居て、彼らは動植物の遺体を食べているから、生きた状態の生物を食べる訳ではない。
けれども残念ながら人間は生食連鎖に属しているので、腐敗し始めた動植物遺体を食べたら胃腸を壊してしまう。
唯一可能性があるとするなら、“果物(の果肉)だけを食べる主義”だろう。果物は植物が動物に食べさせるために作った器官だ。
果実でも種を食べてしまったら駄目だ。果肉だけが許される。となると栄養的にかなり厳しいものがある。
そこで再び元の問題に戻ってくる。人間は動植物の命を戴かずに生きていけない。一方でその真実から目を背けたがる性を持つ。
それを直視するために生徒に屠殺を経験させる授業が、一部の学校で実践されてきた。
それを「命の授業」と言う。
自殺防止の授業のことを「命の授業」と呼んでいることも多いが、結果的に屠殺を経験する授業も自殺防止に繋がっているようだ。
どうして動物を殺して食べることが自殺防止に繋がるのか? それは次のような仕組みだと言う。
「人間は生き物を殺さずに生きていけない」現実を苦しみながら受け入れた先に、無意味な死との違いがクローズアップされる。
不必要に殺さない規範が生徒の間に共有されるようになって、自分自身を殺すことにも、延いては他人を自殺に追い込むことにも、
歯止めが掛かるのだ。
けれども私自身はそう言う授業は受けた経験がなく、大人になってから書物で読んで、一部の学校で行われていることを知った。
であるならば滅多にないこの機会を捉えて、屠殺を経験してみるべきだったかも知れない。
今でも微妙に心に引っかかっている。
そうなるであろうことは予想しつつも、精神的苦痛と肉体的な労力、そして時間的制約から来る困難を避ける選択をしたのであるが、
江戸時代の組織的偽善を思い起こせば、「経験しないと分からない」と言うのは本当だと言えそうなのだから。

追補:佐世保の事件 (2014.8.6)
これをアップした直後に、余りにもタイムリーに佐世保の事件が起きた。単なる偶然だろうけど、何とも晴れ晴れしない心持ちだ。
10年前にも似たような事件があってそれも佐世保で起きた。あの時は小学生だったけれど、「同級生を殺害」という点で同じだ。
佐賀から近いこともあって結構衝撃を受けたのを覚えている。
こうした事件に接する度に個人的に考えるのは、“未成年”の年齢を一律に20歳とせず、犯罪の種類に応じて違っても良くないか?
経済犯罪だとか守秘義務だとかと違って、人間の生命に関する倫理観は、控えめに見ても10歳よりも前に身につく性質のものだ。
むしろ野生動物の本能のおかげで、子供の方が却って命に敏感な面さえあるように感じる。
個人的には2年程前にも10年前の事件を思い出す出来事があった。それは大島優子の「私はこの映画が嫌いです」発言だった。
仕事として呼ばれている中での発言で、本来の役割と逆に映画へのマイナス発言をしてしまったわけで、かなり批判されていた。
対価が支払われる身として、この場面では個人の感情は抑えるべきであると。
けれども私は彼女のプロフェッショナル性の問題よりも、その報道によって知った映画の内容に対して、少なからぬ憤りを感じた。
すぐさま10年前の佐世保の事件を思い出したからだ。
当時問題になった「バトル・ロワイアル」と言う作品中では、友達を殺す強制的ゲームが設定され、全国の子供達が影響を受けた。
作品中の人物を自分のクラスメートに置き換えたオリジナル版を作る。その中で日頃“許し難いと感じている友達”を仮想的に殺す。
特に女子児童・生徒の間ではそれが流行していたと言う話だった。
結果的に友達を刺し殺してしまった女子児童もその影響を受けていたことが判明して、それを受けて続編の発表が延期になった。
こうした経緯を思い出して、「あの時の反省が生かされていないではないか!」 と感じた。
もし自分が大島の立場だったら、「この映画は子供に見せてはいけない。大人であっても見るべきでない」と判断した可能性が高い。
ところが仕事上は映画の宣伝をする義務があったと仮定して、更に想像してみた。
仕事上の義務と社会正義に関わる信念との間で相反するときに、どちらを優先するのが良いのだろうか?
これはかなり深刻なジレンマではあるが、可能な限り社会正義の方を優先すべきではないだろうか? 少し考えた後にそう結論した。
例えば人を殺したくないから軍人にはならないとか、できれば事前に自分の信念に沿って仕事を選択をしたい。
けれどもそれは常に可能なわけではない。映画を見る前に彼女は内容を知ることができたか? また知っていても切迫した状況なら?
“切迫”とは身の安全や生活が係る状況。彼女の場合そうでなかったから事後的に反発できたわけだ。
彼女が「私はこの映画が嫌いです。」と言った直接の理由は、深く考えたと言うよりも生理的に耐えられなかったと言う事のようだ。
ところがその後の謝罪でも、謝罪しつつも映画に対する感想は改めないばかりか、改めて同じ言葉を繰り返した。
その強情さの背後に何があったのか? 単に生理的に受け付けなかったことを言うだけなら、謝罪の中でまで繰り返す必然性がない。
それだけに、もしかしたら本気で「この映画は見ないで欲しい」と私達に訴えかけていた可能性がある。
さて佐世保では、あの事件を受けてこの10年間「命の教育」に力を入れてきたという。それにも関わらず再び起きてしまったわけだ。
「命の教育」に携わってきた関係者が今味わっている苦悩には計り知れないものがある。「何故再び我が町なのか?」
上に記した理屈を想起して貰っても良く分かると思う。教育によって為し得る事は限られている。と言うより教育は元来非力なのだ。
事件は極めて稀だが完全に防ぎたい。どこから尖って出てくるか分からない剣先を抑えるために、真綿を広げて幾重にも重ねる。
この非力さは教育というものが持つ宿命のような気がする。
いろいろ前兆があったことが今になって報道されている。まさに「後悔先に立たず」の状況には違いない。
確実に事件を防ごうとすれば、生徒の自由、つまり人権を予め制限しておけば良いが、それは避けたい。そこで“確実”を断念する。
即ち“非力な教育”で対応するわけだ。当然教育には時間が掛かるから即効性も期待できない。
小学校から問題を起こしてきたが、「人を殺しかねない」と言う意味での明確な前兆となると、父親を金属バットで殴った事件になる。
その時点からわずか何ヶ月か教育したのでは間に合わないから、仮に前兆を捉えたとしても、それ以後為し得た唯一の対策は、
やはり結局生徒の自由を奪う以外に方法がなかったと言う結論になって、前兆も決定打になりそうにない。
友達を殺して身体の中を見たい、とか、その前にも同じ動機なのだろうか、父親を殴り殺そうとした。心情が私には理解できない。
それはとりもなおさず、どのように接したら凶行を防ぐことが出来たのか、その手立てを考える材料が私の中にないことを意味する。
佐世保の教育関係者も同じく途方に暮れながら、それでも「何かしなければ」と、もがいている筈だ。
改めて考えてもやはり、二度とも同じ町で起きた偶然が説明できない印象が残るが、実はその偶然を説明するある仮説を耳にした。
10年前の事件の時に、佐世保に生活した経験のある人物が個人的に私に語ってくれた分析である。
けれども残念ながら、その仮説には受け取る人によって偏見を抱きかねない内容を含むので、ここで具体的には紹介できない。
そこで抽象的表現に終始することになるが、その仮説に対する私の感想は以下のようになる。
まず確かにそう言う原因なら同じ条件の町はかなり限られるが、それでも複数の町があるので、まだ説明しきれない部分を残す。
そして佐世保は普通よりも重い荷を背負わされて、スタートラインの条件が悪かったことなるので、これは気の毒という以外にない。
同じスタートラインにある別の町ではなく、再び佐世保で同じ事件が起きた原因を更に私なりに考えて見た。
物理学の相転移のような現象が、人間社会についても起こりえるなら説明が可能である。その仮説が正しい場合の対策を記そう。
児童・生徒だけでなく市民全体、更には日頃佐世保に出入りする全ての人々まで教育する必要がある。それが効果を上げたときに、
事態は劇的に改善されることが予想される。


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