原発の活断層を巡る議論 
    - 「問題はそこなの?」    2013.8.9 
    

前回「稿を改める」と記してから結構な日数が経ってしまった。今は前期の授業の成績提出時期だが、
揃わない学生レポートを待つ間に、活断層の議論に感じる疑問を記そう。
活断層かどうか関係ない
震災があってから全国の原子力発電所に対して、安全性が再検討されているのはご承知のことと思う。
それに関する具体的な議論の様子を伝えるマスコミの報道に頻繁に接するが、どうもすっきりしない。
活断層はその良い例なのだが、議論をしている専門家達は「活断層であるか否か。それが問題だ」と言う。
けれども活断層を問題にした元来の理由は「安全性」で、そのためには活断層上の立地を避けるのが良い、
それが理由だったはずだ。
「東通原発の敷地内にある破砕帯が活断層か否か」、それで規制委と東北電力の意見が厳しく対立している。
東北電力の主張は「活断層ではなく、地層が水を吸って膨潤した結果の破砕帯だ」と言うことらしい。
そう言うことが起こりえるのかどうか自体も地質関係の学会でコンセンサスが成立していないようで、
議論の焦点はその辺にあるようだ。そう言うことが起こりえて実際あの破砕帯がそれなら、活断層ではない、
と言うのだけど、門外漢の私には良く分からない。本腰入れて調べれば分かるだろうが、...
しかし素朴に理解できないのは、「水を吸って膨潤するような地盤の上に建てて大丈夫なのだろうか?」
もし仮に破砕帯が活断層でなかったとしても、安全性から見たら結論は同じことになりはしないだろうか?
確かに活断層の上に建てるのは危険だろうけれど、活断層さえ避ければ安全というわけでもあるまい。
例えば有明海の干潟から泥を採ってくると、それはそれは大変良く水で膨潤する土である。
まず最初はプルプルの豆腐のような土で、それを乾燥させると収縮して小さくなり、カチコチに堅くなる。
もちろん岩石が水を吸う場合に干潟の泥のような柔らかさだとは考えられないが、
原発を建設した後から更に水を吸って膨らんだり、あるいは乾燥してひび割れたりはしないのだろうか?
それとも膨潤したのは横でその影響で破砕帯ができたのか? だったら膨潤した場所よりもっと弱い地質だ。
非常に軟弱な地盤だと言うことになって、長期間の内には建物が傾いてしまうとか考えないのだろうか?
そう言う新たな危険性を考えない理由が理解できないのだ。
以上は素人の疑問に過ぎない。けれども素人の疑問で実は十分なのだ。活断層以外は調べない仕組みだから。
活断層であるか否か、何故それだけを議論しているのか? その答えは法律的なところにある。
結局のところ新基準でも破砕帯の規定は活断層だけで、活断層以外の危険性は特に規定されていないから、
活断層でさえなければ後は何も考える必要がない。だから活断層かどうかさえ調べれば良い。
法的にはそうだろうけれど、活断層を規定した趣旨は安全性だったのですよね? それはどこに行ってしまったの?
本当に安全を第一に考えていたら、「活断層だ」と言う専門家と「活断層ではない」という専門家がいた時点で、
「もしかしたら活断層かも知れないから、ここに原発を建設するのは止めておこう」との判断になる筈なのだ。
いやそれどころか「活断層だ」という専門家がいなくても、「破砕帯の上は止めておこう」とはならないのか?
今回の余震の中で活断層でない断層が動いた事例もあるのだから、動くのは活断層だけではないとも言えよう。
破砕帯の上はもちろん、破砕帯の近くも避けたい、そのように考えるのが普通ではないだろうか?
そう考えたら、もはや議論する必要さえない。活断層か否かが判定できなくても、結論は変わらないのだから。
「あの場所は避けるのが良い。」
活断層を議論している、そのこと自体が本質を忘れてしまった我々の姿である。
震災よりも前ではあるが、比較的最近のこと、地震に関する原発の安全性が検証されていた時期があった。
その時の報道に接しての印象は、「地震については人為ミスとは逆の基準で対処するって言う事ね」だった。
人為ミスが起きたときの安全装置は幾重にも用意されている。
チェルノブイリ事故は人為ミスの要素が大きい。設計にも問題があったが、運転員が不適切な操作を行った。
日本の原子炉にはそんな危険性はない、と言う話だったが、その根拠は二重三重の安全設計という話だ。
運転員の不適切な操作を補正して原子炉が暴走しないような設計になっていると言っていた。
それと比べて「地震については逆」つまり「明らかに危険な場合だけしか考えない」基準だと感じたのだ。
「運転員がこんな変な操作をするかも知れない」と想定して、冗長な安全設計をすることができたならば、
同じように「この破砕帯が活断層かも知れない」と想定して、その場所を避けることは何故できないのか?
「グレーゾーンは安全と見なす。」 もとより原発の地震対策はそう言う路線のものだった。
学問への信頼感を損なうようで申し訳ないが、物理学の研究でも「できることしかやらない」暗黙の了解がある。
仮に一番の誤差原因が推定できたとしても、それを除去することは不可能に近く困難だ、と皆が同意すれば、
それを除去するのは諦めて、実行可能な部分で精密化した理論で予測して、それで合う実験データだけを扱う。
合わないデータは多分放置した誤差原因のためだから気にしない、むしろ合った部分に真実が隠れている。
合った部分では「理論で考えた事柄が現実に起きているかも知れない」と言う具合に考える。
学問の探求過程では、まあそれでも良いだろう。
同じように原発の安全対策でも「できることしかやらない」としよう。ところが今度は同じ結論にはならない。
誤算の大きさの順番に除去しないのと、危険の大きさの順番に除去しないのとでは、話が全然違ってくる。
けれども学問の構造としては同じだから逆に危ないのだ。専門家であることが判断を間違う原因になり得る。
普段「できることしかやらない」習慣が身についているのだから。
あの時、地震対策は「容易にできないこと」だった。全ての破砕帯を避けるとするなら、既存の原子炉が引っかかる。
それを停止したら、「それ見たことか。危険だったではないか」と言われるばかりか、合格する原子炉まで疑われる。
これはまさに「できないこと」だ。既存の原子炉が合格するように新しい基準を作るためには、
活断層に限定する必要がある。更に限定して「重要な建物が活断層の上にあってはいけない」と言う基準にした。
重要でない建物は活断層上でも良いし、重要な建物でも活断層の近くまで建てて構わない。
「グレーゾーンを危険と見なす」基準は採用できない状況にあった訳だ。もし一つでも合格しない原子炉があると、
安全神話が崩壊してしまうから、基準を緩めて全て合格させる以外に手立てはなかった。
馬鹿げた考え方だと思うかも知れないが、敢えて自分がその立場に置かれたとして考えて見る。人、予算、等々。
がんじがらめになって抜け出せないであろうことが透けて見えてくる。追い込まれた原因は原発の立地にある。
活断層に関する知見は最近大幅に前進した。地震全体に関しても同様である。
だから本当は過去の原発の立地に、今の知識から見ると不適切なものが含まれていても、さして不思議ではない。
無理にその部分まで責任を持って、全部合格させようとしているから矛盾が発生している面もある。
今でも予測困難な地震に関して、今より少ない知識でその影響を正確に予測することは「できないこと」だった。
その後地震学の進展があったが、今度は別の理由で「できないこと」になってしまった。
それでは地震による原発の安全性は、最近になって初めて注目されるようになったのかと言うとそうではない。
かつて日本に原子力発電を導入するに当たって、当時の人々の気持ちはまさに「原子力の平和利用」だった。
兵器の対極としての「平和利用」なのだから、安全性という意味でも世界に誇れる、日本独自のものを開発しよう。
そこで湯川博士を委員長とする原子力委員会が立ち上げられたが、その湯川博士が問題視していたことの1つに、
地震に対する備えもあった。地震の多い日本で建設する施設は、海外のものと違ってくるはずではないのか?
けれどもご存じの通り福島の設備はアメリカの会社のもので、日本の事情に合わせて設計されたものではない。
当時の原子力委員会は手っ取り早く海外の設備を導入する方向に進んだことになる。
湯川博士が考えたように地震対策などでいちいち立ち止まって考えていたら、発電が始まるのに何年掛かったか。
だから現実には湯川博士の考え方では前に進むことはできなかったかも知れない。結局1年で彼は辞任するし、
他にも「慎重推進派」と呼ぶべき多くの人が去って、日本の原子力発電は導入への最短コースを進んだわけだ。
我が国に於いては、特に厳重な地震対策が必要。それは最初の原発が建設されるよりも前から指摘されていた。
そしてそれを指摘する人々の声は反映されなかった。反映していれば原発の立地は違っていた筈だ。
その立地条件から新基準を作ったらもっと厳しい基準になっていたに違いないが、そうはならなかった。
今再び地震対策がクローズアップされているが、問題は「活断層であるか」と言う話に置き換わってしまって、
本来の趣旨は忘れられようとしている。ちょっと頭を冷やせば、活断層が本質ではないことくらい、すぐ分かる。
活断層かどうか判定できなくても、件の原発への正しい対応は自明なのである。

九州の原発
ところで先の再稼働申請に九州電力は、4基もの原子炉を申請している。他と比べて目立って多いと言って良い。
初日に川内原発の2基、数日後には玄海原発の4基の内から2基が申請された。計画中を除いて6基の所有だから、
「その内の4基」と見てもやはり多い印象だ。残る2基の内の1基は井野さんが放射脆化を問題視する玄海1号炉。
まさかそれは再稼働しないよね、と言うことで外して考えれば、九州の原子炉はほとんど全て再稼働申請に出た。
そう言う意味になってくる。
    
確かに九州は地震が少ない。加圧水型原子炉だということもあるのかも知れない。福島は沸騰水型原子炉だった。
加圧水型の絵は書いたことがあるので上に掲げる。
核燃料が直接触れる1次系の水には圧力が掛けられていて、100℃以上になっても沸騰しないようになっている。
1次系の高温水から熱を貰った2次系の水が沸騰して膨張し、その膨張圧でタービンを回して発電機に伝える。
1次系の水から2次系の水へ熱を伝える部分が「蒸気発生器」と呼ばれる箇所で、これも格納容器の中に収まる。
そんなわけで燃料に直接触れる水は格納容器の外には循環しないようになっている。
沸騰水型では燃料に触れた水がその場で沸騰して直接タービンを回すので、格納容器の外までその水が循環する。
メルトダウンはもちろん、もっと小規模な燃料表面の損傷でも、外に放射性物質が出てくる危険性が高い。
更にもうひとつ、沸騰水型では構造的に、水が液体になっている下から制御棒を挿入しなければならない。
緊急停止するときに、加圧水型では上から制御棒を落とし込むだけで良いのに対して、沸騰水型の「下から方式」は、
地震の揺れに対する弱点になると言われている。
ところで沸騰水型では燃料のすぐ隣で水が沸騰していて不安にならないだろうか? 少なくとも私は不安を感じた。
ボコボコと沸騰する水で燃料棒が絶えず振動を受けて損傷しやすいとか、もう少し理科の知識を使えば、
気体の水蒸気は液体の水に比べて伝熱性が小さいので、沸騰することで熱が燃料棒に残りやすくなりはしないか?
結果的には燃料棒の温度が上がったり下がったりする程度で、破壊されるほどの高温にならないから大丈夫なのだ、
とは推測するが、燃料棒にはもう一つ過酷条件が加わる...。
けれども沸騰水型には利点もある。もちろんエネルギー損失の点では蒸気発生器での伝熱損失がないだけ有利だ。
伝熱損失は発電コストに直結する。それ以外に沸騰による自己制御機能が見込めると言う。
本で読むまでは気づかなかったが、この利点は安全性にも関係している。少々専門的になるが、次のような理屈だ。
水は核分裂で発生した中性子を減速して、次のウランに吸収されやすくする機能も持っている。
それによって次の核分裂が起こって連鎖反応が進む。連鎖反応が安定して持続するためには、
1つの核分裂に続く次の核分裂がちょうど1つになれば良く、それより多いと爆発的に反応が加速する。
そのように“制御”すれば核爆発になる。逆に少ないと急激に反応は収束してしまう。ちょうど1つにしたいわけだが、
もし反応が進みすぎると沸騰して水が減り、中性子が減速しないから次の核分裂が抑制される。すると熱発生も減り、
沸騰が収まる。と言う具合の自己制御機能である。これを知って「なる程」と思ったのであるが、改めて考え直すと、
やっぱりトータルの安全性では加圧水型の方が幾らか勝るような印象を持つ。
だから九州の原発を多く再稼働させることに賛成なのかと言われれば、別にそうは思っていない。玄海原発から50km、
この場所に生活の拠点があること。震災を経て圧迫感を増したのが正直なところだ。
けれども全ての原発を止め続けることができないとするなら、どこかがリスクを引き受けなければならないのだから、
それを余所でやって貰って、「自分たちは電力を消費するだけにしたい」と言うのでは身勝手というものだろう。
では電力は足りないのか? 原発をいくつ再稼働すれば良いのか? 結局のところ焦点は電力供給の問題に帰着する。
今の状況を見ると全く再稼働しないでも、電力はどうにか足りている。
従って再稼働の必要性は発電コストだけの話になるが、リスクを小さくすればコストは上昇する。地震対策にしても
他の部分でも安全を確保するために念入りに対策したらコストが高くなって、他の発電方法に劣るようになるはずだ。
と言う事は、リスクは高い状態で負うのでないと意味がない? まさか!!

「本当に私達はリスクを負う必要があるのでしょうか? ...」

(写真について) 先日階段の踊場で蛇を見つけた。珍しいことと言うより初めてだった。見てすぐに種類は分かった。
アオダイショウの子供である。毒蛇であるマムシのような模様を身に纏って、外敵から逃れるための擬態だと言われる。
けれども人間は毒蛇と勘違いして退治してしまうので、人間相手にはこの擬態は逆効果だったのではないだろうか?
蛇でも子供だと好奇心旺盛で、建物の中を探検していたのだろうか? この場所に何のメリットもないはずだ。
さて彼(彼女?)が毒蛇でないことは私には一目で分かってしまう。模様は似ててもスタイルが全く違うから。
最初はばれていないと思ってか知らないが、鎌首をもたげて威嚇してきた。その頭を押さえつけて壺に収容。
高島先生に見せたら「捕まえる前に写真を撮っておけば良かった」と言う話になって、後から元の場所に放って撮影した。
慌てて逃げ出すかと思って、すぐ捕まえられる準備をしていたのだけど、怯えて角にうずくまってしまった。
さっき威嚇した気迫はもうなく、太刀打ちできないことを悟ったためだろうか、フラッシュの度にいよいよ身を縮める姿に、
「こいつ、顔つきに依らず可愛いやつだな」と思った。

                                 研究室トップ