成果主義と不景気      2017.4.6 
       

もう十年以上前のことになるが、イラク-人質事件の時の世間の論調に違和感を感じた。救出に成功した途端、急変した。
救出されたと同時に「自己責任だから救出費用を支払え」などの発言が政治家からも噴出した。
人質を救出してみたら、「これからも活動したい」と言うのだから、「こんなに心配させて何事か! 」となった。
まあこの発言は、本人達が拘束期間中の日本の状況を知らないで、衣食住には不自由しなかったから出たものらしいが、
そこで素直に「こんなに心配させたのに」と怒れば良いものを、自己責任論を持ち出した。それだから論理破綻したのだ。
自己責任だとするなら、彼らがイラク渡航前に「自己責任なので救出費用は負担します」と契約を結んでいたのか?
逆に「○○以上の費用を掛けての救出は不要」と宣言する機会を与えられて、宣言しなかったのか? どちらでもない筈だ。
にも関わらず彼らが「自己責任」として政府の人質救出費用を負担しなければならないのだとしたら、
日本政府は本人の了解を得ずに、彼らがその後の人生全てを捧げても返済しきれない負債を負わせたことになってしまう。
では何故政府は人質救出に向かったのか? それは本人との契約に依るものではなく、日本国民の風潮に流されただけだ。
そしてまた件の発言を機に変化した世間の風潮に流されて、契約も何もないはずの費用負担を言い出した。
原則論に立てば、イラクへの渡航を控えるように要請していた政府が取るべき行動は、「救出しない」と言うことになる。
けれど当時の世論を考えると救出に動かないのは難しかった。それは理解できるが、その時点で政府に自己矛盾がある。
そして最悪なのは、言わば“自分たちが出させた救出費用”を彼らに押しつける世論だ。
今回はこの「自己責任論」とも深く関わる「成果主義」についての考えを記そう。しかも現在の不景気との関連性について。
直観的には「成果主義」は怠惰を排して、経済を活発化させると理解されていると思うが、実は逆なのだ。
まずは大学の内情に少々深入りして記そう。がっかりさせるような話が並ぶが、まあそう言う事例を佐賀大に限らずに、
偶々見聞きした範囲で沢山集めてきたのだと理解して欲しい。要はその背後にある制度欠陥なのだ。
内容は事実に基づいた分析なのだが、かなり赤裸々なので制度を推進する立場の人からどう見えるかも想像して欲しい。
しかもページ削除の権限も向こうにあるので、万が一消えたらそう解釈して貰うのが良い (他に想定しにくい)。
真面目に授業するのは馬鹿げている?
学生なら(佐賀大でなくても)知っていると思うが、大学に「学生による授業評価」が導入され、既にかなりの年数が経つ。
それにはいろいろな質問項目があるが、それらの評価を上げるためには手抜きをした方が良いような項目も多い。
例えば「授業は分かりやすかったか?」と言うありきたりの質問項目について、「分かりやすく」するには、
学生が既に知っていることばかり授業で話せば良いのだ。当然ながら学生にとっては既知の事柄だから「分かりやすい。」
そして当然ながら学生は授業で新たに学ぶ知識がなく、受講する価値が低い。授業の目的は学生の学力向上だと考えて、
彼らの知らないことを盛り込めば、その分だけマイナスに評価される仕組みだ。
そこで別の質問項目に、「この授業は受講する価値があったか?」と言う項目を設ける。ところがここにも落とし穴がある。
これはある人との会話の中で実際に出てきた話なのだが、この項目の評価を上げるには強烈な内容が良い。
真実は「○○の要素がこの程度あり、□□の要素もかなりある。どちらが優勢か断定できる状況にない。」とする。
けれどもそう言う話は聞いていてもインパクトがない。そこで「○○だと分かっているのに、国際社会は何も対策しない。」
と語ったら、その方が断然印象に残るし、授業評価も上がると言うわけだ。
困ったことに、実際に授業の中で「1を10」どころか「1を1000」位に話して、それは完全に嘘を教えていることになるのだが、
授業評価で苦しめられている(んだから大目に見て貰わないとね)、これを聞いて説得は諦めた。
かつて大学の授業は休講ばかりでちゃんとやらない、と言われていた。半分以上休講とか、実際には極めて稀だったが。
それは良くないと言うことで、しっかり15週分の授業をするシステムが作られている。
今は逆の極端に向かっていて、1回休講したら必ず1回補講をする義務が生じて、それをいちいち報告しなければならない。
昨年父の他界のタイミングは後期テスト1週間前だった。それから1週間忌引きで、最終週が全て休講になってしまったが、
規定上は定期試験の前に補講をすること、となっている。規定通りに補講することは不可能なのだ。
このような場合は現実問題として試験終了後に補講する以外にないし、結局そうしたが、厳密には規定に違反していた。
学期途中の場合なら補講する日程が確保できる、のではあるが、それで学生には迷惑この上ない状況を生んでいる。
教員としては補講をするからには一人でも多くの学生に来て貰いたいから、学生の都合を聞いてみる。
ところが経験上、受講生が5人くらいいると、全員が都合の付く日時を見つけられる確率は五割程度に下がってしまう。
受講生が5人というのはむしろ小さいクラスだ。つまり多くの授業では、誰かを犠牲にしないと補講できないのだ。
まだ学期末まで授業回数が充分にある場合、正規の授業時間に急ぎ足で授業して貰った方が良い、それが学生の本音。
けれども15回授業することが優先なので、受講可能な学生がゼロでも補講が義務、と言うシステムになっている。
現実には真面目に授業を受けたい学生は少数派に過ぎない。故に大学評価制度は益々異常な評価結果をはじき出す。
授業内容が今まで聞いたことばかりで新たに学ぶ知識がなくても、試験は楽勝で合格できるからその方が歓迎だ。
休講して補講日には都合が付かないとしたら、大手を振って授業を休めるからラッキー、と言うことになる。
当然その分だけ授業を聞いていないから、その後の授業に付いていくのが難しくなったりするが、楽できる誘惑は強い。
そこで学生と取引をしよう、と言う教員も現れる。「授業したことにしておいて、こっそり休講ね。で、単位は出しとくから。」
この手の話には日頃いらいらさせられているが、現実に起きてしまっている。
大学に対する評価は制度上、書類上での授業の実施状況や、授業評価システムの実施状況、そういう“額面”で行われる。
現実の授業がどう言う状況になっているか、それを捩れた形で反映してしまうので、「成果を上げるためには手抜きせよ。」
変なインセンティブを現場に発生させている。
成果主義が引き起こす不景気
先日大手新聞サイトで「日本の大学・研究機関から自然科学系学術誌への掲載論文数が減っている」と言う記事を見た。
実は内輪では「後から振り返って見たら、そう言うことになっているんじゃないか」と予測されていた事態だ。
原因は成果主義。「えっ、逆ではないの?」 内情を知らないと普通はそう思うだろう。
暫く授業について書いてきたから、その延長で考えれば分かる筈だ。行政の言う成果とは、結局書類のことだ。
授業準備する時間を削って「教育成果が上がった」との証拠書類を書いた方が、評価が上がり予算が獲得できる。
この「授業」「教育」を「研究」に置き換えても同じことが起こっていて、今の大学は“成果書類作り”に疲弊しているのだ。
研究する暇があったら書類を書いた方が良い。
以前からずっと我々教員が書類作りに追われる状況が進行していた。着任したとき既に現在進行形、“伝統”なのだ。
そしてここ数年は学生までも、成果の証拠書類作りに駆り出されるようになって来た。
上記の「学生による授業評価」もそうだし、他にも学生が書く(端末から入力する)書類が複数ある。建前は学生のためだ。
けれども実態は補講制度と同じで、大多数の学生は迷惑に感じている。学生の立場で見ればすぐ分かる。
授業評価にしても学生目線では「何か先生に伝えたい人だけ書く」方が有難い。しかし「入力率=成果」と見なされるから、
大学は必至に全学生に入力を促す。こうして学生ではなく役人のためのシステムになってしまっている。
そう言う証拠書類を書きたい人は少ない(ゼロではない)。けれども書かないと予算が削られるから、みんな書いている。
成果を上げるところに予算を手厚く配分しよう。成果が上がらなくて予算を削られるのは自己責任。
「成果主義」と「自己責任論」は同じ文脈の中での表と裏のようなところがある。
大学教員の給料にまで部分的に導入されて、趣旨は「手厚く配分」の方だったが、「給料削減」もある制度が導入された。
まだ制度を選ぶことが可能なので、周りでは確実に給料アップしそうな人しか適用されていないが。
大学の予算にしても自分の給料にしても同じだが、成果を上げないと削減されるとなると、必至になって努力する筈だ。
だから成果が上がるはずだったのに、結果的には逆の状況に陥っている。
このような書類と実際の成果の食い違いは、民間企業なら起きないはずだ。役所だからいけないのだ。
そんな具合に考えるかも知れない。ところが半年余り前に、そうでもないことに気づいた。
民間企業でも成果主義が、ブーメランのようにして営業の足かせになっている。
気づいてから「旬の内に早く書こう」と思っていたが、先日テレビで経済界の人物が、ちょこっとその点に言及していた。
現在物が売れないのは、国民が物を買わないからで、それは国民が「いつリストラに遭うか心配」だからだ。
つまり成果主義の裏側の「自己責任」、「成果を上げぬ者、食うべからず」が財布の紐を堅く締め上げている。
言うまでもなく、売りたい者と買いたい者が両者とも同意して初めて取引は成立する。
幾ら売り手のインセンティブを高めて、命がけの状況を作っても、それが買い手には逆に負のインセンティブとして働く。
これでは取引が成立しないから経済が回らない。
ここで想定する「買い手」は個人に限らない。企業も業績が悪化したときは、誰も助けてくれない。「自己責任」だから。
傾いた企業を公的に支えるのは、市場原理に反するから慎重にならねばならない。確かにそうだ。
ご存じの通り、最近でも大企業の経営が傾いている。実はこれを書いている今も、関連の号外が画面の端に出ている。
企業が破綻すれば最悪だ。その企業に属する全ての人が路頭に迷うのだから。
そこで企業は労働力を買うのを控え、貯蓄に回す。具体的には少ない人数を雇用して、低い賃金で済ませようとする。
そうやって内部留保を確保しておかないと不安だ。今業績が上がっていたとしても、先のことは分からないから備える。
現政権は経済活性化のため「賃金アップを企業にお願いする」、「内部留保を減らしてくれ」と言っているが、
企業にとっても現在の制度の過酷な環境では、そんなに気楽に賃金アップすることはできない。だから従業員に言う。
「我が社には余裕がない。成果を上げない人には止めて貰うしかない。」
それを聞いた従業員は、当然財布の紐を締める。そして物を買わないから、企業の業績も上がらない。そして従業員に...
こうした悪循環が起きる状況がそもそも不景気なのであって、この不景気を推進するエンジンは成果主義である。
アベノミクス経済政策
世間では「アベノミクスの失速」などと言われるが、実態はアクセルとブレーキが一体になったペダルを踏んでいたのだ。
自動車で2つのペダルを同時に踏んだらどうなるか、ご存じだろうか? 手順に注意が要るので実験するのは勧めないが、
結果は余程踏み込み加減に差を付けない限り、ブレーキ効果の圧勝だ。
それではアベノミクス自体はどうなのだろうか? これについては当初から「古い経済政策の復刻版」という印象を持つ。
古い経済政策で最近は避けられてきた。それも理由があって避けられてきた経済政策なのに、何で今更と感じた。
例えば日本銀行と政府の関係。歴史的にはどこ国でも、貨幣発行などの決定権は時の政府が握っていた。
ところがそれだと、政府の人気取りのばらまきだとか、経済の健全性を損なってしまって、権限を政府から切り離した。
それが日銀。そう聞いていたのに日銀を政府に従わせると言う。
公共事業もそうである。公共事業を行うことで経済を活性化させるアイデアは、ケインズ経済学の中で出てきたもので、
戦前のことだから、それからもう大変長い年月を経ている。そしてその限界も分かっている。
割と多くの人が実感しやすいのは「無駄な公共事業」だろうか。必要か否かではなく、経済活性化のために行う事業だ。
それが無駄だとしても、実は経済学の理論上は正しいことなのだ。
「我田引水」をもじった「我田引鉄」と言う言葉は、仮名-漢字変換できないところを見ると余り一般的でないのだろうか?
国鉄時代の言葉で、政治家が自分の選挙区(=票田)に鉄道を引くことを言っていた。
もう国鉄がJRになって久しいが、国鉄を分割民営化したのは「我田引鉄」を防ぐ必要に迫られたためと言っても良い。
政治家が選挙区に鉄道を引くため、かつての国鉄は採算が取れなくなったし、あらゆる公共事業も政治に歪められた。
政治家の力量は、「どれだけ地元に公共事業を誘致できるか」で測られるような風潮があった。
建前は必要だから行う事業と言うことになっているが、建設費とか利用者数とか施設稼働率などを行政が見積もると、
大幅に甘い予測になってしまうのは、3年後に予定されているオリンピックの事例でもお馴染みだ。
政治の要求に応えて建設するためにはどう言う理屈を立てれば良いか、と言う順序で考えたと見る方が実情に近い。
誰もが自分の選挙区に公共事業を誘致しているのだから、当然公共事業費は増えて、国の財政赤字が膨らみ続ける。
こう言う状態、所謂「土建政治」の反省から公共事業は削減したのではなかったか?
いずれも昔失敗した経済政策で、副作用の大きいことが判明している方法を復活させた。だが一時的には効果がある。
それも分かりきったことで、一時しのぎにこの経済政策を復活する、と言う議論なら検討の余地があるが、
それが「これまで誰も実行したことのない、新しい経済政策」のごとく登場したことには驚愕した。「みんな、知らないの?」
アベノミクス導入時には、過去の反省に基づく反対意見も根強かったが、高い支持率に支えられて押し切った。
けれどもこれが当面成功した最大の要因は、為替レート、それを容認したアメリカにあると考えた方が良いように思う。
思えばアベノミクス以前の円相場は、1ドル80円とかだった。当時日本経済界からは「90円なら何とか...」との声があった。
それが今は1ドル110円でも円高と言っている (円高と円安の数字の逆転関係は皆さん大丈夫?)。
円が高くなると日本で生産した製品が、アメリカに輸出してドル建てにしたときに、値段が高くなるから余り売れなくなる。
だから円が安い方が日本にとっては、物が売れて好景気になる。為替と貿易の基礎知識だ。
かつて日本は積極的に円安に誘導する政策を採って、日米経済摩擦を引き起こし、近頃は円安政策は許されなかった。
そのアメリカが今回は容認したので、これまた「昔うち捨てられた古い経済政策」の復活だった訳だ。
外的要因で幸運に経済は上向いただけだよね?
それ以外の要因もあったのは事実だけど、それも副作用の知れた古い経済政策の復活に過ぎない。どこが新しいのか?
結局「アベノミクス」と言うネーミングだけ新しくて、中身は旧式復刻版のようにしか見えない。
当然そう言う旧式製品は旧式の性能しか発揮できないから、そこは割り切って使う以外にない。今の場合は副作用だ。
既にマイナス金利政策の副作用が報じられているが、それ以外の政策にも概ね上記のような副作用がある。
その副作用故に葬り去られていた政策を復活した、と認識しておけば、「長期間この政策は続けられない」とすぐ分かる。
改めて言うが、この政策の賞味期限は短く、早めに止めないと日本の政治・経済が蝕まれてしまう。
所謂「3本の矢」と表現するときは中身が具体的でないので、本来単純に言うことはできないが、大雑把に分類してみる。
すると「第1の矢」と「第2の矢」が、副作用故に過去に廃版になった政策の復刻版に当たる。
それに対して「第3の矢」は少し違う。ここで言われている「規制緩和」はむしろ“実現困難な未来の政策”の印象もある。
官僚や民間団体でも現在持っている既得権益を維持しようとして、規制緩和に反対するからだ。
規制緩和に副作用がないと言ったら、それは間違いである。緩和してはいけない領域もあるが、
単に「規制緩和」とだけ掛け声を掛けると、却って逆にそういうところでばかり規制が緩和されてしまったりする。
例えば労働者を守るための規制。労働者はそのままでは交渉力がほとんどなく、なすがままにされてしまう。
そのための労働組合だが、最近は力を失っている。力関係を補正するための規制は緩和しない方が良い場合が多い。
一方独占販売権を得ている業界(検定教科書などもそうだ)は、ライバルの少ない環境で商売ができている。
新規参入を阻むような規制の緩和に対して、既存の業界から強い抵抗が出てくる。それが原因と推断しても良いだろう。
「第3の矢」だけはほとんど実現していない。現政権の復古主義とは真逆の政策なのだから無理もない。
最近のマスコミ報道で、現在の金融政策、つまり「第1の矢」を支える理論を提唱してきた名誉教授が、宗旨替えしたと。
しかし彼が言い始めた新しい内容はどうやら、「第2の矢」も必要だ、と言う内容に過ぎないようだ。
最近極端な金融政策を採った国は日本だけではないが、思ったように効果が上がっていない。
それを見て「第2の矢」も必要と考えを改めたとのことだが、学問というものは保守的で本当にダメだな、と思わされる。
現実の政策は既に「第2の矢」に進んでいて、それでも成果が上がらない局面にあるのだ。理論は捨てて足下を見よう。
本来効くはずの政策が余り効果を発揮しない原因は「成果主義」だ。これが生活者の実感。
コインの表側しか見ない経済理論
かつて子どもの頃に初めて資本主義経済の理論を聞いた時から気になっていた疑問がある。未だに答えを聞かない。
それがどうも現在の世界的不景気の原因と繋がっているような気がしている。
経済活動に対して政府が介入することなく、市場原理に任せることで自然と良い状態が実現する。そう言う話だった。
良い製品と悪い製品を作る会社があれば、買い手は良い製品を買うから悪い製品を作る会社は自然と淘汰される。
同じ品質の製品を安く作る会社と高く作る会社があれば、買い手は安い製品を買うから必然的に前者が残る。
もちろんこの議論には例外もある。例えば欠陥住宅は、購入後何年も経って問題が生じる。しかも隠れた箇所に。
原因が掴みにくく時間も掛かる、こうしたケースについては、買い手に正確な情報が広まると期待するのは無理がある。
そう言う見落としがあるから「市場原理に任せて放置すれば良い」とは元より素朴すぎる。
だがここで問題にしたいのはもっと普遍的な見落としのことだ。市場原理によって淘汰された会社の人々の処遇だ。
この点については「再チャレンジするチャンスがある」と言う漠然とした保障しか聞かない。
再チャレンジして成功する保障はない。そこでまた再チャレンジしても保障はない。
どう言う事業に取り組むかによって違うだろうが、一度のチャレンジに要する期間は5年とか10年とか、...。
3-4回もチャレンジしたら、その人の人生の生産年齢時代の半分以上を費やしてしまう。
ひたすら借金を膨らませる人生を全うした人がいたとして、その人生を誰が支えるのだろうか?
本人は経済的に富を生み出すことができず、マイナスの富を生産したのだから、他の誰かが彼を支えねばならない。
そこまで言わずとも、一度の失敗であっても、その間の彼の生活を支える必要があり、それは誰なのか?
これを市場経済に任せていたら、彼を支える人間が出てくることは考えられない。
だからどう考えても、市場経済は何か別のシステムによるバックアップ無しに、自力では存続できないシステムなのだ。
さしあたってそれが公的保障制度で、こうして否が応でも社会主義的要素が入らざるを得ない。
そこで公的保障を維持するためにどこから資金を調達するのか? 競争に勝ち抜いた会社の生産を振り向ける外ない。
その方法として最も効果的なのは、勝者に課税して社会保障として敗者に配分する方法だ。
けれども折角競争に勝ち抜いたのに、敗者との差がなくなるほど課税したのでは、努力するインセンティブが働かない。
だから敗者への保障は控えめにする訳だが、社会全体として見てこれはどう言う状況なのだろうか?
まず最近よく聞くのは貧富差の拡大である。勝者は次の競争でも有利な立場にあり、敗者は不利な立場に置かれる。
投入できる資金が多い方が、市場の競争で優位に立てるからだ。それ故次の競争でも勝って、また資金力に差が付く。
だから勝者と敗者の区分けが固定化され、貧富差が拡大してしまう構造が、自由競争経済に内在している訳だ。
これを何百年も続けたらどうなるか? それがアメリカだ。ヨーロッパやアジアでは大きな戦争があって、リセットされた。
そう言う何か強制的に富を奪うような出来事がないと市場経済は成り立たない、と言う議論。
市場経済を健全に保つのに戦争が必要悪だ、と言われて、「それじゃ戦争しよう」と思う人は滅多にいないことと思う。
そうでなければ強権的な富の再分配だ。江戸時代の徳政令も、動機は別のところにあったにせよ、まあその類だ。
だが現代に於いてはなかなか難しい。あるとき財産を奪われる人が出てくるが、彼にとっては理不尽この上ない。
何か落ち度があってそれで財産を奪われるなら分かるが、「さあ今から富の再分配だ」と言われて納得できるだろうか?
だから累進課税を強化して、富の蓄積速度を少しだけ緩める程度が限界。それさえも強い抵抗に遭うのが普通だ。
これは資本主義経済のかなり大きな欠陥の一つだと思う。
そもそも市場原理によって良い会社が残り、社会全体の生産体制が優れたものになっていく、と言うシナリオだった。
けれども「生産しない人間やマイナスの生産をする人間を支える」構造を、市場経済は不可避的に内包せざるを得ない。
この点への留意が足りないか、そもそもその点に気づいてさえいない議論が多すぎる。
我が国でも米国でも、競争に勝った者の主張する論理は「より多くを生み出す人間が報いられて当然」と言うものだ。
けれども上記の通り、競争社会を維持するコストは膨大だ。敗者の生活と更に再チャレンジまで支えるのだから。
その費用は競争社会の恩恵を受けた者、即ち勝者が支払わなければならない筈だ。
例えばリストラについてもそうだ。多くの人員を整理して業績を立て直した。それが良いことのように言われたが、
それだけ社会保障に負担を掛けているのだから、それで会社は立ち直ったとしても、自力で立ち直った訳ではなく、
社会全体が支えてあげたと言うことになるのだ。
効率の悪い不採算部門の縮小は今でも叫ばれるが、それを断行すれば解決かように言うのは思慮不足だと思う。
それは必要かも知れないが、ある会社でそれをやったなら社会全体としては、その分だけ社会補償費が膨らむ。
それは外野からワイワイ言っている我々自身のことである。我々が彼らを支える覚悟を持ってから言うべきことだ。
またリストラする会社も、「リストラを断行」とか言って「正義の御旗を掲げる」ような不遜な態度を取るべきではない。
「申し訳ないが、止めていく従業員をみんなで支えて下さい。」と頭を下げるべきだ。
我々はどうも市場経済を論じるときに、勝者と敗者の両側から見る事をしないで、勝者のみしか見ていないようだ。
これが会社だけのことなら、その会社が敗れたときには会社自体がなくなっても構わないだろうが、
そこには生身の人間がいる。彼らはその後も生きていかなければならないし、敗者が消え去るような見方は誤りだ。
敗者のその後まで含めた経済原理を組み立てる必要がある。
現実の社会はある程度そうなっている。上記の通り社会保障システムの併用だ。敗者の経済が全体の半分を占める。
そう考えると市場原理は全体の半分、しかも全体の枠組みに統制された一部分に過ぎない。
それなのに何故か我々は、コインの表側、勝者の経済だけを見て議論したがる。
「生産効率を上げよ。」「不採算部門はリストラを断行せよ。」 そう「成果主義」の発想は、成果を上げる側しか見ない。
成果を上げた場合だけ見ていても、その経済理論は社会全体を見ていないから、必然的に政策は失敗する。
必要なのは、敗者の経済、即ちコインの裏側の制度設計だ。
敗者の経済を設計することの方が、勝者のそれよりも、多分チャレンジングで難しい。そして真に必要とされている。
何しろ定まった経済理論ができていないのだから。
ところで私は経済学の専門家ではない。だが、どうも子ども時代の疑問には本当に答えがないらしい、と感じている。
学問というものを知った今では、経済学の内情が透けて見えるような気がする。
例えば量子力学に「観測問題」と言う古典的問題がある。観測した瞬間に「波束の収縮」が起きるとされるのだが、
この「波束の収縮」が相対性理論と合っていない。そこで様々議論されてきたが、未だに当時のまま、手に負えない。
一方、観測しない間の波の伝搬方程式の部分は大きく発展した。それを「相対論的量子力学」と呼ぶから騙される。
学問は成果の上がる方にばかり発展してしまうものなのだ。
更にもし答えがあるなら、それを国民に知らせるだけで、国民の財布の紐は緩む筈だ。だのに何も聞こえてこない。
もはや確信に近い。答えはないのだ。
最後に提案
「アベノミクス」は功罪とも知れた古い経済政策なので、それが効果を上げる筈であることも分かっていると言える。
副作用に言及しないのはアンフェアだが、それを承知で復活するなら、早く経済を立て直して元に戻す必要がある。
けれどもそれと同時に「成果主義」と言うブレーキも踏み続けているから、理屈通りには効果が上がらない。
どうするべきなのか? もう答は分かるだろう。それは日本人が堅く締めている財布の紐を緩めるような政策である。
財布の紐を締める理由は、将来が不安だからだ。いつ働けなくなって収入が途切れるか分からないから、
節約してできる限り貯蓄に回そうとする。それを吐き出させようとして、マイナス金利とか導入したけれど、
将来への不安と比較したなら、たとえマイナス金利でも使ってしまってゼロ円になるよりは安心だ、と言うことに気づく。
将来への不安は貯蓄インセンティブが強烈。これ自体を除去しないと「異次元の政策」なんぞじゃ太刀打ちできない。
だから結論としては、
社会保障、とりわけ雇用の保障を充実した方が良いのでは?
と言うことになる。ただし政策だけの問題でもない。我々の意識にある、“失敗した者への偏見”も克服する必要がある。
例えば会社を破綻させた人に、再起の機会を奪うような「白い目で見る」風潮。失業者に対してもだ。
これでは失敗できないから、安全策を取らざるを得ない。つまり内部留保、貯蓄を大きく確保しながらやっていく外ない。
「白い目で見る」風潮は、経済を萎縮させる要因のひとつでもある。

(写真について) アロエの花。今住んでいる家は中古で買ったのだが、一年位してアロエがガラクタに混じって出てきた。
割れたプラスチックケースに植わった状態で庭に、と言ってもコンクリートの打たれた場所に転がっていた。
普通の植物ならとっくに枯れている筈だが、まだ生きていた。さすが多肉植物。しかし植える予定はない。
割れたプラスチックは剥がして、根が露出した状態で、一応土のある場所の上に移動したが、植え付けたのではない。
それでも根を伸ばして、その場所に定着してしまった。凄い生命力だ。定着してからは年を追う毎に株が大きくなっている。
数年後にはついに写真の花を咲かせるようになった。
葉は地面近くから叢生して出るので、背丈は50cm以下にしかならないが、花は1m程も伸びた花茎の先に付く。
一つ一つの花の長さが4cm程度だろうか? 大きい。観葉植物のイメージしかなかったが、予想外に立派な花が多数!
白状すると縦長の花序は余り私好みではないのだけれど、普通に鑑賞して充分人気が出てしかるべき花だと感じる。
そこで改めてネット検索してみると、やはり花の説明が乏しい。結局葉の写真で同定してアロエベラと判断した。
多肉植物には詳しくないから余り自信はないが、レアな種類でないと言う前提ならそうなる。花で調べた方が確実なのに...。
葉肉を食べられることもこの時に知ったが、今のところ実行していない。いつか試して見たいと思う。


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