消えゆく雑木林      2014.12.10 
     

この秋は、「生物群集の数理科学」の授業で学生を植生調査に連れて行った。この授業は一年おきの実施だから、
前回の授業で調査地を訪ねてから2年が経過していた。
上に掲げた写真はこの授業を実施した最初の年のもので、学生達には「大学のパンフレットなどで使うため」と、
撮影に了解を貰っているが、「ホームページに載せるため」とは言わなかったので念のため顔が見えない写真を。
植物の枝先を手に、図鑑で調べているところだ。
調査は3回で、いずれも佐賀県内の“性質の違う林”を3箇所訪ねる。その2回目に訪ねた林が今回の主役である。
ここは「かつての雑木林が照葉樹林に移り変わる最終段階」にある。
授業の立ち上げの時に学生を案内する場所を探していて、この場所に足を踏み入れた当初は照葉樹林と思った。
林の下の方は常緑樹ばかり。林床もササなどがなく、照葉樹林の典型のように見える。
それは授業開始の前年のことで、照葉樹林の見本林が欲しいと思って、この場所の予行調査に取りかかった。
中には下の方に枝の出ていない樹木もある。そこで高枝鋏を使って上の方の枝を採集した時、認識を変えることに。
高木層に出現した樹木の半分は雑木林の植物たちだったのである。
コナラやハゼノキが出てきて、調査区画の外には(ヤマ?)ザクラやカキノキも見つかった。ひょろひょろと10m以上。
こんな柿の木を見るのは初めてだ。コナラやハゼノキも、お手製の10m高枝鋏を使って枝を採集する必要があった。
そこで考え方を変えることにした。植生遷移の実例も授業内容だ。
色々な生き物たちが集う
この場所には野生の山茶花が多い。ちょうど授業で訪ねる時期が開花期で、大きくて美しい白い花が咲いている。
現地の近くで撮影した写真が左のもので、更に庭に移植したものの中で、特に気に入っている株の花が右だ。
    
ひとくちに「野生の山茶花」と言っても個体差はかなり大きく、左のものは花弁が長くて反り返る癖があるようだ。
右の個体は花弁が小さい代わりに5枚より多くなる傾向がある。立派な雄蕊が魅力!
今年の成果のひとつはここに生えているシイノキがツブラジイだと確定させたことだ。いつもの区画内の椎の下では
ドングリが見つからないので、数十メートル離れた場所でドングリを探した。
その方面に椎の木が多いのは以前から気づいていたが、今回1人の学生が参加できずに後から別途訪ねていた。
人数が少ないので面倒を見る忙しさが減って、いつもよりも遠くでドングリを探す余裕があったと言う訳である。
樹皮でも見分けられることにはなっている。スダジイの樹皮は縦に溝ができるのに対して、ツブラジイはツルツル。
けれどもツブラジイでも老木になると樹皮に縦の割れ目ができてしまう。この木も中間的だ。
そこでドングリの形であるが、実のところドングリの形も一定していなかった。そこで大きさも加味して判断した。
即ち大きめのドングリは割と丸っこく、小さめのドングリがスダジイのように紡錘形に近い形だった。
栄養的に充実すればツブラジイ型に、つまり丸くなるのであろうと判断して、「ツブラジイ」と断定することにした。
けれども本当にこの2種を区別すべきなのか、益々疑念を抱いてしまった。
そういう訳で、この場所の照葉樹林が完成したときの行き先が決定した。ツブラジイ林になろうとしているのである。
照葉樹林の要素として、先程挙げたサザンカもその一員だし、もっと大きくなる樹木では、
アラカシ、シリブカガシ、クロキ、ヤブツバキなど、様々な常緑樹が育っている。中でもアラカシは、数が多い上に、
ツブラジイと遜色ない高さに成長する。それでも椎の木が照葉樹林の親玉と見なされるのだ。太く大きくなるから。
それにアラカシは色々な場所に出てくるから、特定の植生を代表できない。
ドングリを拾った椎の木だけでなく、近くの別の椎の木の樹皮も確認するために歩き回った。実はドングリを探す間、
時々動物の糞の臭いがしていたのだが、その時に臭いの発生源を見つけた。
糞を分解して主を同定する能力は持ち合わせないが、人間と同程度かやや大きい位だったので大型動物のものだ。
この付近には時々イノシシか何かが掘り返した穴が空いている。連中かも知れない。
ここを秋に訪ねると毎回お目に掛かるカメムシがいる。ベニツチカメムシと言ってボロボロノキの実しか食べない。
我が子に食べさせるために母親がボロボロノキの実をエッチラオッチラ運んでくると言う拘りようだ。
つまりこの場所にはボロボロノキが生えていて、区画の取り方によっては調査対象に入ってくることになる。
「ボロボロノキ」とは変な名前だが、枝が折れやすい、あるいは落葉と一緒に細枝が落ちるから付いた名称らしい。
樹木の名前には変な名前が多い。他にも「バクチノキ」とか「ショウベンノキ」とか。
本当かどうか調べたことはないが、分類学の研究者の間で変な名前を付ける流行があったとも聞いたことがある。
そんな名前を貰った植物が気の毒な気がしてしまうんだが...。
    
ベニツチカメムシにとって秋のこの時期は集団越冬のために集結する季節である。そのことを知っている私でも、
何気なく目を落とした先にベニツチカメムシの大軍団を見つけると一瞬どドキッとする。
けれどもその次の瞬間、また会えた幸福感に満たされる。ところが今年はベニツチカメムシの集団を見なかった。
実は一昨年も見ていない。
もしやこの場所のボロボロノキが枯れたのではあるまいか? ボロボロノキも下枝がなかったから確認が難しいが、
枯れてしまってベニツチカメムシ共々姿を消したのだとすると、ちょっと寂しい気がする。
ボロボロノキは落葉樹でも南方系の植物で、必ずしも雑木林の木ではない。けれども照葉樹林のど真ん中よりは、
その端の方でもう少し人里に近い環境の方が適している。
雑木林の終焉
当初から理解していた筈の植生遷移を、今年は痛切に感じ取ることになった。この場所で雑木林の盟主はコナラだ。
雑木林の樹木としてはクヌギも有名だが、この場所には見当たらないので、コナラ主体の雑木林だったのだろう。
そのコナラが今年は減った。調査区画によっては出てこない場所さえある。
亜高木層のアラカシやヤブツバキの枝葉が視界を制限して、林冠部はよく見えない。調べてから実感するのだ。
更に衝撃的だったのはあちらこちらに横たわる倒木だ。樹皮を確認するとコナラの可能性が高い。
立ち枯れて朽ちた幹の上半分のなくなったものも多かった。中には下の写真のように他の樹木の枝に引っかかって、
斜めに倒れかかっている倒木もあった。
    
背の低い植物は先に姿を消す。照葉樹林の常緑樹が成長する過程を考えれば当然だ。最初は背が低いのだから、
背の低い植物がライバルだ。照葉樹林の植物は暗いところでも育つのに対して、雑木林の植物は違う。
更にこの場所の環境も以前と変化していて、雑木林の植物たちにとっては地面が少々湿りすぎている。
そこで競争に勝った常緑樹が残って徐々に大きくなってくる。
大きくなるに従って背の高い植物が競争相手になってくる。コナラは一番高い樹木のひとつだから、最後まで残った。
そのコナラが今、育ってきた照葉樹林の樹木達に負けて次々と倒れている。細いものから順に。
コナラのドングリは沢山落ちている。アラカシのドングリも沢山落ちている。けれども幼木に育つのはアラカシのみ。
ツブラジイのドングリはほとんど落ちていない。小さいドングリではあるけれど、渋みがなくて食べやすいから、
動物が真っ先に拾ってしまうのだろう。けれどもツブラジイの幼木はそこかしこに出てきて、暗い林床で育っている。
コナラの芽生えは育つことができないから、今生えている成木が姿を消したら終わりだ。
元々ここのコナラは苦しそうだった。下から育ってくる照葉樹林の常緑樹が迫ってきて、少しでも上に伸びて頑張る。
追いつかれてしまわないように、と言っても植物の上に育つ高さには限界がある。
水と養分を運ぶ幹が余りにも長く、そして重力に逆らって上に伸びてしまうと生理的に持ちこたえられなくなってくる。
「水におぼれそうになって、背伸びしながら首を伸ばして天を仰ぐ。」
人間に喩えて言えば、そんな姿を想像させるようなコナラの林だった。初めの方で触れたカキノキだって普通でない。
常緑樹に追い詰められて上の方に枝を伸ばした姿なのだ。
雑木林のコナラが生きながらえるには人間の関与が欠かせない。人間が定期的に伐採したり落ち葉を持ち去ったり。
そうすることでコナラに良い環境が保たれる。人間は雑木林の落ち葉や薪炭を利用しなくなって放置するようになった。
その結果、雑木林はこの土地本来の照葉樹林へと戻っていく。
雑木林の植物が姿を消す過程の、いよいよ最終段階に入ったことを痛感した。この未来は予知していた筈のものだ。
けれどももっと緩やかな過程のような気がしていた。自分の寿命の尽きる頃になってやっと違いに気づくような。
そう言うゆったりした変化を期待していたので、衝撃を受けてしまったのだ。
わずか2年間で事態が急激に進行していた。とは言え、樹木が集中的に倒れるには強風とかもあるから、
次の2年間も同じペースで倒れるというわけではないだろう。だがしかし「速い」と感じた。
この光景を目にして立ちすくむ。...。寂しいとか悲しいと言うよりも、静かに運命を受け入れるような心持ちになった。
雑木林がついに消える。厳粛な自然の掟を前にして...。
背後から、沢のせせらぎが変わらぬ水音を立てているのが聞こえる。

雑木林を含めた里山に対して、拙著の中で徹底的に分析を加えて、自然と人間の関係を考える希望と見なした。
その私にとって雑木林の終焉に立ち会うことには特別な意味があった。
雑木林が消える運命にある、そして里山自体も消える過程にある、その事実に正面から向きあって議論したわけだが、
目の当たりにすると不思議なほどに静謐な感覚が沸き上がってくるのだった。


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