「究極のエコカー」って言うけれど... 
  - 燃料電池自動車 -          2014.11.28 
 

最近また良く耳にするようになって来た言葉がどうも引っかかる。燃料電池自動車を指して言うマスコミ語の
「究極のエコカー」という表現だ。
以前この言葉が盛んに使われていたのは10数年ほど前のことだったろうか? その時も違和感を覚えていた。
その後あまり聞かなくなって、最近また聞くようになった。
なぜ燃料電池車が「究極」なのだろうか?
マスコミが言う時に必ず付ける枕詞によると、「“走行時に水しか出さない”究極のエコカー」なのだそうだ。
それだけのことなら電気自動車は、昔から存在して、昔から“走行時に水すら出さない”条件を満たしていた。
そもそもガソリン車やディーゼル車が普及する前の、つまり随分と古い時代から、
電気自動車も存在していたのだが、そのことは皆さんご存じだろうか?
当時もどちらの方式が良いか議論があったが、結局ガソリンなどの石油精製物を使う現在の方式が選ばれて、
電気自動車は片隅に追いやられたと言う経緯だったらしい。
当時の勝者である石油を使う自動車が、現在2つの理由で岐路に立たされている。つまり、
 1. 石油燃料の枯渇
 2. 二酸化炭素の排出 … (下記注)
要するに、入口も出口も問題なのだ。入口とは燃料(資源)、出口とは排気ガス(廃棄物)。そこでどうするのか?
その選択肢の中に燃料電池自動車も電気自動車も、更にそれ以外の方法もある。
電気自動車の弱点は昔から航続距離だった。今の電気自動車は当時とは比較にならないほど長距離走る。
けれどもまだガソリン車などと比較すると短く、カタログの上で比べて長いものでも半分くらいしかない。
そもそも長い航続距離の電気自動車は新興国の会社が出しているので、カタログ値自体にも疑念はある。
それに運転する人は承知のことと思うが、実際の走行ではカタログ値と条件が違いすぎて、
大概の場合にカタログ値より大幅に燃費は悪くなってしまう。元来からして誤差まみれの数値なのである。
そんな訳で大雑把に比較すれば良い。1-2割の違いには意味がないが、2倍なら多分実走行時にも差が出る。
そこでざっくり言えば、電気自動車ももう少しで長年の弱点を克服できそうな段階にきている。
それに現状では充電ステーションの不足も弱点である。これはインフラの問題で動力機構の問題ではない。
結局ところ、過去に電気自動車が選ばれなかった歴史を、現在の我々も背負う必要があると言う意味でもある。
現状でインフラが整っているのはガソリンスタンドだけなのだから、電気自動車固有の問題でもない。
それでは燃料電池車はどうなのだろうか? 航続距離もまあ弱点と言えるかも知れないが、他の点と関係する。
どうやって充分な量の水素を自動車に搭載するのか?
単純に圧縮する方法の他に、水素を吸着する物質を使う方法が検討されていて、方法次第で積載量も変わる。
だから「どう言う方法でどの程度の大きさの水素タンクを積むか」で航続距離も変わる。
更に「圧縮した水素を積んだ車が事故を起こして安全なようにするにはどうするか?」なんて言う問題も絡む。
そう言う総合的な課題の一部分に航続距離もある。
こうして見ると何となく感じるのではないだろうか? 燃料電池自動車はまだまだ技術開発の途上にあるのだ。
それに比べて電気自動車は課題が明確で、航続距離だけがほとんど唯一の技術的課題である。
けれどもそれは必ずしも電気自動車がゴールに近いことを意味しない。
昔から研究されてきたと言う事は、それだけ改善の余地が少なくなっている可能性も意味する。
それに対して燃料電池は新しい技術だからまだまだ改善の余地が残っていて、追い越してしまう可能性もある。
だから現時点では両方とも“本命”扱いではあるが、燃料電池車が“究極”な理由はやはり出てこない。
もう一つ指摘しておくべきだろう。
 燃料電池は電池の種類にすぎない。
 だから、燃料電池車も電気自動車の中のひとつに過ぎない。

電気自動車と比較しながら燃料電池自動車を見てきたが、実は片方がもう一方に含まれてしまう関係なのだ。
電気自動車の中で特に電池が燃料電池の場合だけ区別していることになる。
もちろん燃料電池には他の電池と違う特色もある。蓄電に関わる物質は通常の電池では全て電池内にあるが、
燃料電池では水素と化合する酸素が空気中にある。これはかなり魅力的な性質だ。
電気自動車は航続距離が問題だった。航続距離を伸ばすには電池の大きさを大きくすれば良い。
けれども人や荷物のための空間を電池で占領しないようにしたいから、だから航続距離を伸ばせないのである。
そこへ燃料電池という新しい電池は、反応に関わる物質の片方を積まなくて良いと言うのだ。
とは言うものの、実際には水素が気体であるため、そのまま積載すると逆に体積が大きすぎて話にもならない。
それをコンパクトに収めるための装置が場所を取るため、結局は酸素を積まずに済むメリットが相殺されてしまう。
燃料電池の際立つ優位性を挙げるとすれば、重量エネルギー密度だと常々考えている。
水素が酸素と結合して得られるエネルギーを水素の質量で割る。すると水素が最も軽い元素である点が効いて、
圧倒的な数字をたたき出す。重い方の反応物質である酸素を外して計算できるから、いよいよ凄い結果が出る。
ところが体積を小さくするためにそれも帳消しなのだ。
更に充電時間の違いもある。水素ならガソリンと同じように注入することができるが、充電池への充電は違う。
充電に時間が掛からないのが燃料電池自動車の優位点でもある。
ただこの点に関しては、インフラ設計とそのシステムの問題と言えなくもない。例えば充電池を丸ごと交換したら、
時間を短縮できるかも知れない。そのためには充電池を個人の所有物としないで、社会で巡り巡って皆で使うもの、
と言う具合に位置づけなければならない。技術的と言うより社会的な課題である。
結局のところ燃料電池自動車は、「従来と違った魅力を備えた電池を搭載する電気自動車」と言うことになる。
だから様々な環境負荷を評価したときに、似たような結果になるのはむしろ当たり前だったのだ。
電気自動車の電池部分の違いに過ぎないが、確かに魅力的ではある。
何故一旦下火になったのか?
昔マスコミがしきりに「究極のエコカー」と言っていた当時は、トヨタやホンダがハイブリッド車を市販し始めていた。
ハイブリッドに後れを取った日産や三菱が電気自動車に力を入れ始めたのもこの時期だった。
それに対して「燃料電池自動車が究極のエコカーで、ハイブリッド車はそこまでのつなぎ役」と言うニュアンスだった。
欧米、特にアメリカの自動車メーカーは日本のハイブリッド技術に燃料電池技術で対抗していた。
ではハイブリッド車との比較では燃料電池車はどうなのだろうか? この場合は確かに「走行時に出すCO2が違う」。
「ところが、」 である。走行時でないときが問題になる。
水素をどうやって確保するのか? 石油などを原料に水素を生産しなければならず、その際にCO2が出てしまう。
石油や天然ガスは言い換えれば「炭化水素」、炭素と水素の化合物である。そこから水素だけを取り出す。
そこで残った炭素は二酸化炭素になる。と言うか、二酸化炭素にすればエネルギー的に収支が合う。
もし炭素を黒鉛にしておけば二酸化炭素は排出しないけれど、そのためにはエネルギーを投入しなければならない。
そのエネルギーを生産するために化石燃料を燃やしたら、やっぱり二酸化炭素が出てしまう。
ライフ・サイクル・アセスメントと言う言葉を聞いたことがあると思う。環境への負荷を見積もったり比較する時に、
使用しているときだけでなく製造時や廃棄時まで含めた「ライフサイクル全体で見積もる」という趣旨だ。
今の場合、走行時のCO2発生しか考慮しないのはライフ・サイクル・アセスメントの考え方に反しているわけで、
適切な評価方法とは言えない。
二酸化炭素を出さないで水素を得る方法もないことはない。まず水素は水の電気分解で生産することにしておき、
電気分解のための電力を太陽光や風力で得る。まあ原子力でもCO2に関する限りはOKだ。
更に建設時のエネルギーでも化石燃料を避ければ完璧だが、さすがにそれは今のテーマから脱線しすぎだろう。
現時点での現実味はあまりない方法かも知れないが、CO2を出さない方法はあるのだ。
ところが、それなら電気自動車も同じ。既に述べたように燃料電池車は電気自動車の電池の違いに過ぎない。
だから電力を蓄電する方法の違いで、通常の蓄電池に蓄電するか燃料電池に蓄電するか、の違いになってしまう。
そして「未来のシステムである」点でも同じだ。
再び現時点での現実的な水素供給方法に戻ろう。その場合には水素生産時に二酸化炭素が排出されてしまうから、
走行時に水素を発生するハイブリッド車に対して優位性がない。排出タイミングの違いだけである。
それでは排出量が少ないと言う事はないのか? その答えははっきりしないが、やっぱり優位性はなさそうなのだ。
燃料電池車や水素生産プラントの現物ができていないので、理論的な計算がなされているだけである。
現実の市販品に関する数値のあるハイブリッド車と同じ土俵では比較できない。
 土俵が同じでない比較に惑わされるな !
これはあまりに重要な教訓だが、その点を踏まえて燃料電池車に厳しめに比較すると、せいぜい同程度である。
良くてハイブリッド車と同程度、悪ければそれ以下。それ以上と言うのは期待薄だ。
だから「走行時に二酸化炭素を出さない」ことは、当時の状況としても「究極のエコカー」の理由にはなり得なかった。
むしろ「走行時」と限定して本質が見えないようにする“目くらまし”の表現だったのである。
その表現が必要だったのは海外の自動車メーカーだった。日本のハイブリッド車が既に市販され始めている中で、
燃料電池方式を目指してまだ研究途上にある自社の優位性を主張するためには、
遅れている自社技術の方が、完成した暁には、現存する他社技術よりも優れている、と言う論理が必要だった。
だから「走行時」に限って比較するのだ。そうすれば燃料電池自動車の方がCO2を出さない。
けれども実際には水素生産時にCO2を出してしまうから、その比較には意味がなかった。
日本のマスコミには日本企業の応援をして欲しかったのに、海外企業による根拠のない宣伝に惑わされてしまって、
燃料電池自動車が「究極のエコカー」だと繰り返した。何と歯がゆいことか!
更に「究極のエコカーと言われる燃料電池自動車でさえ、水素生産時にCO2を発生させる」などという表現まで出現。
何と言えば良いのやら。そもそも究極じゃないし、水素生産の方法によってはCO2は発生しないし...。
その後「究極のエコカー」の表現は下火になる。日本企業は研究開発に努力して燃料電池方式でも最先端に躍り出た。
そうしたら燃料電池自動車を指した「究極のエコカー」の表現が鳴りを潜める。
そのように宣伝しても日本企業を利することになるだけだから、欧米企業は言わなくなってしまい、
日本企業は黙って研究開発に勤しんできて結果的に追い越したのあって、元々そんなキャンペーンは張っていない。
日本企業も政治力を身につける必要がある。のは確かだが、マスコミの騙されやすさもどうにかならないのだろうか?
誤魔化しがまかり通って誠実さは報われなくて、残念に思う。
今また「究極のエコカー」なのは何故?
さて最近は事情が違う。いよいよ日本企業の燃料電池車が市販できる日が近づいてきた。それがきっかけである。
水素を得るのに二酸化炭素を発生させてしまう問題は相変わらずだ。
ハイブリッド車と比べて特段の優位性が言えないのも以前と変わらない。
実は一番の変化は電気自動車にある。電気自動車の生産は簡単だ。新興国の安い労働力を使って安く生産できる。
技術的にはガソリン車などと比べても簡単に生産できてしまうのだから、新興国の強みが活かせる。
もちろん電池の蓄電量も進歩したし、それで航続距離も伸びているのだが、驚くほど安価な電気自動車が出てきた、
そこのところにここ10年ほどで最大の情勢変化がある。
燃料電池は技術的になかなか手強いが、従来の電池と組み合わせるだけなら割と簡単に電気自動車ができてしまう。
既に記したように電気自動車の弱点は航続距離。それを克服する電池は、もしかしたら燃料電池かも知れないが、
それ以外の、例えばリチウムイオン電池とか、そう言う従来型の蓄電池の改良によって手が届きそうな感じもする。
少し変わり種の電池と言うか、電池ではなくてコンデンサの一種である「電気2重層コンデンサ」も、
充電池並みの蓄電量を実現して、「コンデンサの蓄電量は相手にならない」と考えてきた“電池屋”を驚愕させている。
そう言う情勢の中で、我々はどの程度まで燃料電池の開発に力を注げば良いのだろうか?
従来型の電池の改良も先進国の活躍場所だし、燃料電池の開発はもちろん先進国の活躍場所だ。けれどもその先は?
完成した電池を組み込んで自動車に作り上げる段階では、新興国に太刀打ちできなくなる可能性がある。
そう言う時代に再び言われ始めた「究極のエコカー」の言葉は、結果的に日本企業への応援になっている。
けれどもそれが過ぎ去った未来には、日本の自動車産業にとっての試練が待ち構えていることはないのか?
それに備える手段が単なる宣伝活動だけでは、燃料電池開発につぎ込んだ研究開発費を回収できないかも知れない。
つまり他の電池が主流になってしまうかも知れず、更に危険なのは自動車産業自体が新興国の産業に変質しないか?
かつて労賃の安い時代には日本は繊維産業で栄えた。
それが今では新興国の産業になっているように、これから自動車産業も同じような経過を辿る可能性があると心配する。
今の戦略で本当に正しいのだろうか?
今の日本で自動車産業は、まだ海外勢に優位を保っている数少ない、もしかしたら唯一かもしれない産業なのだから、
この分野で日本企業が負ける未来予測はやっぱり嬉しくない。

 ハイブリッド車  電気自動車  燃料電池車 
 二酸化炭素    △→△   △→○   △→○
 達成段階     ◎    ○    △

以上をまとめて独断的判定を記した星取表が上だ。矢印は発電方法が将来太陽光などに変化した場合のこと。
もしや、実現への段階が燃料電池は一番遅れている、つまり難しい技術故に“究極”なのか? それなら表と一致するが、
結局「エコ視点からの究極」ではない。

(注) 二酸化炭素による地球温暖化は確かに問題だと思うが、世間での言われ方には微妙な違和感を抱いている。
少々先鋭化しすぎというか、断定的すぎというか。
まずは他にも様々ある問題の中で、バランス良く語られていないように感じるのだ。「環境問題=温暖化」ではないと思う。
もしかしたら逆なのかも知れない。他の環境問題も、もっと大きく取り上げなければならないのを、不十分なのが原因で、
「環境問題=温暖化」になってしまっているのか?
もうひとつは要するに、もう少し正確に知っておいて欲しい、と言うことだ。温暖化の予測は非常に難しく、誤差も大きい。
それを承知の上で「リスクを回避するために対策」、結果的には対策した方が良いと思うが、対策を取った場合でも、
必ず温度上昇が止まるとは言い切れないようなところがある。それでも確率論的に考えて対策を取った方が良さそうだ、
と言うような塩梅なのだ。

(写真について) 今回のテーマと関係する写真を、と考えて選んだ。名付けて「風上に進む風力自動車」。教材である。
扇風機の風を正面から受けて風上に進むようになっている。撮影方法はもちろん流し撮りだ。
10年ほど前に大学に小中学生を呼んで「環境科学学習会」というのを開いた。そこで参加者にこれを作らせたのだが、
そのための試作第一号が上の写真だ。この一号機ではプロペラの角度を変更して減速比を大きくしている。
プラスチック製のプロペラの羽根3枚を一旦切り取って、溶剤系の接着剤で断面を溶いて元と異なる角度に接着した。
これでは手間が掛かりすぎるので、元のままの角度で作って見たら、扇風機の風や走行台の表面次第では進むので、
子ども達には写真の一号機よりも減速比の少ない風力自動車を作って貰った。
とにかく簡単に作れるようにしないと子どもには工作が難しすぎるので、それがポイントだった。
アイデアの出所は新聞記事で、大学生がその性能を競った大会の話。それを如何に子ども向けに設計し直すかである。
その後、今度は佐賀県内で「子供科学祭」というのが開催された。そこにブース出展を頼まれ、その時もこれを出した。
今度は人数が多いので大量に材料を購入して現地に向かった。
とにかく小学校4年生程度の男の子に評判が良く、次から次とやってきて忙しかった。とうとう材料がなくなって、
1セットだけ残して、来た親御さんに「これはホームセンター○○で、こちらは模型店で入手して下さい。」とか言って
作成方法を記した紙を渡していたら、そこに来た子どもが最後に残る1セットを「これ頂戴」と。
「説明のために残しているんだからあげられないの」と言うと、「けちっ」と。無理にでも持って行こうとする。
そして入手方法を聞こうとしない。それも複数の子どもが。「子どもって身勝手だなあ」と思った。
輪ゴムの掛け方を逆にすると、風下に向かって後ずさりしてしまうのだが、それでも喜んでいる子どもにお母さんが、
「あんた、それじゃ当たり前でしょ。」と言っていた光景が印象に残る。
その数年後に、何と、同じような教材が教材カタログに載っているではないか! 新聞記事からの思いつきだったから、
教材メーカーに売り込む気になれず自重してしまったのだけど、やっぱりあの時に売り込んでおけば良かったのかなあ。
この教材、私の配った設計図が基になっている可能性さえあるぞ!


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